2017年10月14日土曜日

「スローモーション」中森明菜feat.初音ミク

 「スローモーション」は、中森明菜のデビュー曲です。作詞・作曲は来生たかお、えつこの姉弟、編曲は船山基紀氏です。

 最近、この曲が注目されているみたいです。どうやら、 加納梨衣さんの「スローモーションをもう一度」というコミックが原因らしいです。80年代大好き高校生男女のラブ・コメディー漫画だそうです。心がホンワカするようなウルトラピュア・ラブストーリーだそうです。
 まるで「いちご白書をもう一度」みたいなネーミングですけど、80年代を代表する楽曲に、松田聖子さんの「青い珊瑚礁」とかじゃなくって、あまり知られていない「スローモーション」を持ってきたところがポイントですね。同じ中森明菜さんでも、「少女Aをもう一度」じゃあ、更生に失敗した女の子の物語みたいですし、おニャン子の「セーラー服を脱がさないでをもう一度」はヘンに誤解される恐れがあります。ちなみに「セカンドラブをもう一度」だと、2+1=3回目、それとも(1+1)×2=4回目の恋のどっち・・・ってどうでもいいですね。

 中森明菜さんがブレイクしたのは二曲目の「少女A」からで、これがデビュー曲と思っていた人も多かったように思います。リアル80年代では「スローモーション」は、それほど知られた楽曲ではありませんでした。ですから「スローモーション」は、80年代を代表する曲とは云えませんが、来生作品ってこともあって、80年代っぽい楽曲ではあります。

 当時、中森明菜ファンであった僕は、デビュー曲「スローモーション」と、ファーストアルバム一曲目の「あなたのポートレート」、この2つの来生作品が大好きでした。

 デビュー曲「スローモーション」は、二ヶ月後にリリースされたファーストアルバムの先行シングルカットという扱いだったそうです。しかも、海外レコーディング。アイドル系の歌手は、シングル版がメインで、ある程度曲がたまるとアルバムにまとめるみたいな感じでしたけど、このようにアルバムが中心ですよっていう形式をとっているのは、中森明菜をアルバムアーティスト系アイドル歌手として売り出そうとしていたからに他なりません。こういう子たちは、年間に何十曲ってレコーディングしたので、覚えるだけでも大変だったみたいです。でも、たくさん売りたければ、たくさん曲を出すってのは、コストはかかるでしょうが正攻法この上ないやり方です。後の世の、握手券を付けるとか、特典○○を付けるみたいなやりかたが、いかに音楽文化を破壊していったかということですね。

 で、中森明菜さんのYouTube動画って短命なんですけど、次々とアップされてくるんですよね。デビューから35年ですけど、今も熱いファンがたくさんいるということでしょう。


 ビックバンドの生伴奏、スクールメイツのお嬢さん、有線マイク、どれも古き良き昭和です。マイクを右手で持って、コードを弛ませて左手で持つ。昔は、アイドルだって、演歌歌手だって、みんなこうやって歌ったんですよ。
 そういえば、松浦亜弥さんも有線マイクを持って歌うときは、左右の違いはありますけど、ちゃんとこうやって持っていましたね。事務所の先輩の演歌歌手にでも教わったんでしょうか。

 しかし、これで16歳ですからね、デビュー曲ですからね。この20年後に松浦亜弥さんがデビューして、16歳の時に「めっっちゃほりでーーーー」とか歌っていたわけですから、アイドルも時代とともに随分変わっていったってことが分かります。
 今じゃあ、16歳の女の子が、ソロで生歌を生放送で披露するなんて、考えられなくなってしまいました。


 伴奏は、バンドマスターが自らのバンドに合わせて編曲していたので、ちょっとずつ異なるんですよね。あと、番組の進行が押してきて、マキが入ると、やたらテンポが早くなったりします。でも、出だしを間違えたりすると、さりげなくフォローなんてのもありました。 
 アイドルと云えど、歌番組では、真剣勝負の時代だったと思います。

 初音ミクカバーは、「のつP」さんの作品になります。「のつP」さんは、最近、精力的に投稿をされているボカロPさんです。僕の望んでいる曲を知っているんじゃないかってくらい、涙ものの作品を投稿してくれます。
 そういえば、初音ミクも16歳でした。


 キターッって感じでしょうか。中森明菜のボーカロイドカバーというのは、今までもいくつかあったんですけど、なかなか満足な作品に巡り会えなかったんですよ。
 歌っているときの息づかいなども伝わってきて、初音ミクの歌唱力も、ようやくここまで来たかって感じです。久しぶりに、初音ミクが人間で無いことを淋しく思いました。今回「スローモーション」の記事を投稿しようって気になったのも、このカバー作品があればこそです。
 
 できれば、インカムでなくって、有線マイクで歌わせて欲しかったところですけど、だったら、お前が作れってことになっても困りますから、今日はここまでにしておきます。

2017年10月9日月曜日

Wink(ウィンク)がTwinkle(光り輝く)した瞬間 ~解散のための復帰に思う~

 国民的女性アイドルユニットを並べると次のようになるそうです。

「キャンディーズ」「ピンクレディー」「おニャン子クラブ」「Wink」「SPEED」「モーニング娘。」「AKB48」・・・

 まあ、「おニャン子」が国民的かどうかは、若干の検討の余地を感じますが、各ユニットが被ること無く一列に並んでいます。
  国民的と云うからには、老若男女問わず支持されていたわけですが、それぞれメインターゲットといえるファン層を持っていたと思います。
 例えば「キャンディーズ」は男子大学生。「ピンクレディー」を支えていたのは小さな女の子。「おニャン子クラブ」は元祖ヲタクな男子高校生。「SPEED」は同年代の女子中学生と云ったところでしょうか。
 で、「Wink」は、女子高校生や若いOLと云われています。お人形のような素敵なお洋服に、ヲタクコールが入る隙の無い洋楽カバー。従来のアイドルに無いスタイルが、同年代の同性から支持されていたようです。

 Winkの楽曲群から感じるのは、選曲のセンスの良さです。それから、(原曲と聞き比べて分かったんですけど)ちゃんとWinkの曲として昇華しているんですよね。これに関しては、訳詞を担当した及川眠子さんや編曲の船山基紀氏の功績が大きいと思います。

 では、膨大なYouTube動画から、特に鈴木早智子さんが可愛いく歌っているテイクを、厳選して貼り付けさせていただきます。
 しかし、歌番組に出演する度に衣装を変えてくるだけでも凄いんですけど、どれも可愛く着こなしていて、まあ、こういうところも女性に人気があった理由の1つなんでしょう。

 まずは、3枚目のシングル「愛が止まらない 〜Turn It Into Love〜」です。


 相田翔子さんの方が少し歌唱力があるので、歌割りは多め、鈴木早智子さんの方がダンスのスキルが少し高かったので、振りがちょびっと難しめになっています。
 タレントとしてのインパクトは、相田さんの方があったように思います。天然ボケキャラが売りの相田さんですが、当初から、ちょっと不思議な雰囲気を持っていましたね。相田翔子さんは、何度か歌手デビューの話があったそうですが、「早智子と二人だったらできそうな気がした」と語っています。
 早智子さんは、歌っているときの表情が良いですし、リズムのとりかたも可愛いくって、まあ、普通に素敵なタレントさんに思います。

 4枚目のシングル「涙をみせないで 〜Boys Don't Cry〜」です。ユーゴスラビアの音楽ユニット「ムーラン・ルージュ」の「Boys Don't Cry」のカバーだそうですよ。


 会場が一緒に歌っているんですけど、女の子たちなんですよね。ここまで黄色い声援が飛ぶ女性アイドルというのも記憶にありません。
 Winkは、もともとアイドル路線のタレントとしてデビューしたのでは無いと云われています。そのことが、かえって斬新なアイドルとしてブレイクすることになるわけですから、世の中、何がウケるか分かりません。
 彼女たちが、いわゆるアイドルのように歌いながら笑わないのは、歌の世界観に笑顔が必要なかっただけのことで、この「涙を見せないで」みたいなテイクでは、ちゃんと笑顔を見せてくれてます。
 そして、この時の、鈴木早智子さんは、最高に可愛いと思います。笑わなくても十分可愛いのですが、笑うとさらに可愛いです。
 
 5枚目のシングル「淋しい熱帯魚」です。これは洋楽カバーではありませんが、作詞が及川眠子さん、編曲が船山基紀氏と同じコンビですから、同一線上にあるような感じで、他の曲との違和感もありません。


 紅白出場時のテイクのようです。1989年においてワイド画面なのは、アナログハイビジョンの試験放送だからだそうです。30年近く前のテレビ映像が超高画質で鑑賞できるのは、この映像を高画質で録画してくれたファンがいたからこそで、貴重な動画と云えます。
 
 6枚目のシングル「One Night in Heaven~真夜中のエンジェル~」です。作詞:松本隆、作曲: スティーブ・リローニ、ダン・ナヴァーロ、編曲:船山基紀とありました。訳詞でなく作詞なんですよね。カバー曲かと思われがちですが、オリジナルなんだそうです。


 この歌の世界観。Winkの完成形と云われている楽曲ですね。
 
 以上4曲が、彼女たちの絶頂期の楽曲でしょうか。ファンの語るところでは、活動後期にも名曲と云うべき楽曲があるとのことですが、世間に知られているとなると、この4曲と次の「Sexy Music」までだと思います。「Sexy Music」は、「ノーランズ」のカバーで、「愛が、止まらない」の二匹目のドジョウ的な楽曲です。勢いのままにオリコン1位をとりますけど、イマイチ感は否定できません。「愛が、止まらない」の時は、明らかに原曲以上の魅力がありましたからね。

 Wink(ウインク)と云うユニット名は「キラキラ輝く」を意味するTwinkle(トゥインクル)からきていると云います。
 小さな事務所で、大きな後ろ盾もなくデビューした彼女たち。新曲のイベントをうっても、観客が1人2人ということもあって、二人並んで楽屋の壁を見つめながら、「もうやめようか」と話し合ったそうです。事務所が抱えていた借金は、すでに4,000万円を超えていて、個人経営の事務所にとっては限界にきていました。
 そんな時に、3枚目のシングルが突然のヒット。ザ・ベストテンの「今週のスポットライト」のコーナーに呼ばれたときは、スタイルストも付いていなかったといいます。
 そこからブレイクして、1年後にはレコード大賞を取ってしまうのですからね。賞取りレースは、事務所の力次第と揶揄されていた頃です(今でも?)。1989年のWinkは、文字通り「光り輝いて」いました。受賞には、レコード大賞は、その年に最も輝いていた歌手と楽曲に与えられるべきという、選考委員会の意地があったと云われています。

 急にブレイクしたことについては、かなりの戸惑いもあったようで、早智子さんは、次のように語っていました。
 「私も翔子も人見知りだし、レコーディングとライブ以外の仕事は正直いって苦手でした。気持ち的にもいっぱいいっぱいで、「いずれは人気が落ちて、人も周りからいなくなるんだろうな」なんて考えて、勝手に23歳で引退しようって思っていた時期もあったくらいです。」

 1996年の活動停止については、相田さんの移籍が理由とされています。落ち目になった東芝(事務所)が半導体部門(相田翔子)を売り渡したってところでしょうか。
 彼女たちは、売れなくなっても、ソロの仕事が中心になっても、Winkを解散する気持ちは無かったようですが、現実は厳しかったみたいです。結局、Winkは、解散する機会すら与えてもらえませんでした。
 しかし、このことによって、相田翔子さんは残りましたし、残ったからこそ、復帰話も現実味を帯びていると云えます。

 Winkの活動停止後の二人の対照的な芸能活動については、様々なところで、「勝ち組」「負け組」として語られています。鈴木早智子さんの「ASAYAN」でのヤラセ演出、過激な写真集、アダルトDVDなどについて、悪い大人に欺されたみたいな言い訳が通用するとも思えませんが、その後の、薬への依存、不倫騒動、金銭トラブルと、絵に描いたような転落人生を考えると、他人事ながら、やるせない気持ちになります。
 僕が、絶頂期の鈴木早智子さんに惹かれるのも、その後の彼女を知ってしまったからかもしれません。でも、決して、同情なんかじゃないんですよ。

「止まったままの時計を動かし、けじめをつけて終わりたい。」

 これが、今回の復帰報道の根底にある想いのようです。ただ、復帰には乗り越えるべき困難がたくさんあるみたいです。Winkを続ける想いが叶えられなかったように、Winkをやめる想いも、また、叶えられないまま終わってしまうのでしょうか。

2017年10月2日月曜日

Wink(ウィンク)「愛が止まらない」「淋しい熱帯魚」~美空ひばりを追い落とした伝説のアイドルユニット~

 Wink。

   来年は、デビュー30周年だそうで、22年振りの活動再開か、なんて云う噂が出ています。ライブだけでなく新曲も、という話もあるようです。報道によると、「けじめのため」だそうですから、ファンにさよならを言うために復活するってことでしょうか。

 YouTubeには、Winkの動画がたくさんアップされています。多くは、テレビの歌番組の録画ですが、ファンの方々の熱い想いが伝わってきます。VHSテープって、保存しておくだけでも大変でしょうからね。

 数あるテイクの中から、まずはこちらを。


 ザ・ベストテンですね。MCが酷いんですけど、画質がズバ抜けて綺麗なものですから、セレクトさせていただきました。

 Winkのデビューは、比較的遅くって、相田翔子さんが高校を卒業してからだそうです。鈴木早智子さんは1つ年上ですから、このときは、18歳と19歳ということになります。
 で、鈴木早智子さんって、こんなにも可愛かったんですね。びっくりしました。何より歌う表情が良いです。可愛さの中にも、儚さとか、艶めかしさを感じました。ファンにならなかったことを後悔しておりますw

 「Turn It Into Love」は、カイリー・ミノーグのデビュー・アルバム「ラッキー・ラヴ」に収録されていた楽曲です。カバー曲「愛が止まらない」は、Winkにとって3枚目のシングルで、最大のヒット曲になりました。カイリーもアイドル的な扱いでしたけど、Winkの2人とカイリーって同年代だったんですね。

 2つめは、ライブ動画。ファースト・ライブとのことですよ。


 生バンドライブですね。良い時代です。

 Winkのテイクって、同じ歌でも、いろんな衣装があるんですよね。ゴスロリって云うんでしょうか。どれも手が込んでて、お金かけていて、如何にもバブルって感じです。あと、特徴と云えば、振り付けが、二人で違っているところです。

 この曲に限らずWinkは、洋楽のカバーを歌うことが多かったんで、何となく軽く扱われていた覚えがあります。「淋しい熱帯魚」は、待ってましたって感じで、デビュー二年目ながら、レコード大賞受賞となるのですが、このときに賞を争ったのが、美空ひばりの「川の流れのように」だったと云うんですから、またもや驚きです。故人とはいえ、偉大なる歌手を押しのけての受賞ですからね。80年代は松田聖子に始まりWinkに終わると語られる所以です。

 洋楽カバーが中心だったWinkは、当初、レコード大賞とは無縁の存在と思われていました。しかし、ヒット曲を連発する彼女たちを無視するわけにもいかず、という流れでのノミネートであったと云われています。
 美空ひばりさんは、この年の6月に亡くなっています。故人が大賞を受賞するというのは、前例のないことでしたが、それを承知でノミネートしてるわけで、これで取れないとなれば「美空ひばり」に恥をかかせることになります。ですから、受賞は美空ひばりでほぼ決定、と思われていました。
 この年のWinkの大賞受賞は、その選考方法だけでなく、レコード大賞のありかたそのものが問われる大事件であったと云われています。
 
 「淋しい熱帯魚」は、売り上げこそ「愛が止まらない」に及びませんが、大賞受賞曲ですし、洋楽カバーでもありませんから、懐かしのメロディーなどでは、こちらの方が紹介されることが多いみたいです。

 レコード大賞のテイクです。これも高画質ですね。


 最後まで歌い切っちゃいましたね。Winkは笑わないアイドルと云われてましたけど、泣かないアイドルでもあったみたいです。
 あと、鈴木早智子さん、ホントに可愛いんですけど、中森明菜入ってませんか?
 
 デビューから8年でWinkは活動を休止。それぞれ事務所も変わって、ソロの活動を始めます。

 相田翔子さんの現在の事務所って、アップフロントだったんですね。相田さんは、今月の22日に、作詞作曲も手がけたソロアルバムの発表を受けて、ソロコンサートを開くそうです。(会場はもちろん、コットンクラブ)音楽活動の他にも、CMもありますし、司会、バラエティー、映画にも出演していて、芸能活動は順調のようです。
 早智子さんは、アダルト向けのDVDを発売して予約が20万枚なんて出ていましたけど、スキャンダルとか、金銭トラブルとか、いい話がありません。

 2人は、今も仲が良いみたいで、ラインで連絡を取り合ったりしているそうです。Winkの再結成についても、早智子さんの現状を憂う翔子さんから出てきた話と云われていますが、事務所にしてみれば、大きなリスクを負うわけで、再結成報道の後に、否定こそしないものの、慎重なコメントが出てくるのも致し方ないかと思います。
 
 お終いに、それぞれのソロテイクを貼り付けさせていただきます。


 この時、30歳くらいでしょうか。大人の歌が似合っていく素敵な時期を、無為に過ごしてしまったことが残念でなりません。


 1989年は、まさにWinkの年でした。しかし、Winkの紅白出場は、この年の1回だけ。この後も、コンスタントに音楽活動は続けていきますが、しだいに低迷していきます。そして、1996年に活動を休止。8年間でのシングル25曲、アルバム26枚とありました。

Winkは解散したわけでは無い。だからこそ、もう一度ステージに立って、けじめをつけたい。
さよならを云うための再結成。
そして、あまりにも対照的な2人の現状。

 今夜放送された「歌のゴールデンヒット」で、司会を務めていた相田さんですが、堺氏から再結成の話をふられたときも、言葉を濁していましたね。レコード大賞受賞時のVTRが流れてきたとき、涙を浮かべていたように見えたのは、気のせいでしょうか。

2017年9月30日土曜日

駿河湾の鯵と「えびす丸」の遭難

 静岡県東部に沼津という街がある。長らく県東部地区の商都として栄えてきたが、最近は元気が無い。駅前のデパートは、居酒屋が入居する雑居ビルになってしまったし、商店街はシャッターが目立つ。そんな沼津市で唯一賑わっているところが、沼津港の周辺だ。海産物を売る店や、海鮮料理屋が並んでいて、観光バスが次々とやってくる。お目当ては「アジの干物」「生シラス」「生桜エビ」といったところだろうか。観光地価格でボッタくらないのが人気の理由らしい。
 沼津という地名は、狩野川河口の「沼沢地にある湊」という意味だから、港周辺が栄えるのは、古の姿に戻ったようで面白い。
 沼津の港には、西伊豆で捕れた豊富で多様な海産物が集まり、周辺には加工場が多く作られた。とくに「鰺の干物」の生産量は、現在まで不動の全国一位である。干物の材料のアジは、今では外国産や養殖物になってしまったが、干物業者が云うには、材料がどこであっても、沼津で干物に加工しているのだから立派な国産品だそうだし、養殖業者が云うには、駿河湾の鰺の養殖技術は抜群で、味も安全性も天然物を超えているそうだ。


 僕は、伊豆半島のとある漁村で生まれ、僕の祖父は漁師だった。僕が言葉を覚え始めた頃、家には魚の図鑑があって、魚を見ると「オトト」「オトト」と言っていたらしい。どの魚を指しても全て「オトト」というので、家族は、「これは?」「これは?」と、面白がって聞いていたが、あるとき、突然「アジ」と言ったそうである。駿河湾でアジがたくさん捕れていた時代の話である。

 当時、駿河湾のアジは、巻き網で捕っていた。巻き網漁は、2隻の網船でイワシやアジの群れを囲い込んで捕る漁法である。今では、どんな小さな漁船だってエンジンくらい付いているだろうが、当時の網船は大型の伝馬船でエンジンは無く、漁場まではエンジン付きの漁船に曳航されていたそうである。
 漁は夜間におこなわれた。漁師たちは、夕方になると弁当を持って出かけ、夜が明けると帰ってきた。納戸という部屋が家の奥にあって、昼間はそこで寝ていた。僕らが、家の近くで大騒ぎして遊んでいると、「寝ているから静かにしろ」って、近所のおばさんに叱られたものである。
 月夜の晩は、漁は休みであった。それから、風が強かったり、波が高かったりする日も漁を休んでいた。村の爺さんたちは、ベンチに座って海をよく見ていた。「今日はニシ(西風)が強い」とか「今日はナライ(東風)だ」とか、風の話が挨拶代わりだった。
 だから、なんだかんだで、漁に出ない日も多かった。近隣の村では、大型の漁船を使って遠く太平洋まで出かけていったり、多少の荒波でも漁に出ていたので、「うちの村の漁師は怠け者だ」なんて揶揄する者もいたが、使っている船が船だからってこともあるし、資源保護の意味合いもあったように思う。
 漁に出ない日は、網の修繕などをしていた。仕事で縫い物をしていたので、漁師はみんな裁縫が得意だったそうだ。でも、休みの日のほとんどは、酒を飲んでいたように思う。昼間っから酔っ払いが歩いているなんてのは、漁村ならではの光景だろう。

 祖父は、自分の船を持たず、網元が運用する巻き網船にのっていた。船の名前は「えびす丸」、いわゆる雇われ漁師だった。あるとき、祖父たちの漁船が操船を誤って座礁し、乗っていた伝馬船が転覆するという事故が起こった。夜の9時頃、漁場に向かう途中のことだったらしい。漁師たちは、伝馬船(網船)の上で仮眠をしていて、夜の海に投げ出された。が、海に落ちたといっても、漁師である。夏だったし、海が荒れていたわけでもなかった。
 ところが、転覆した伝馬船には、大量の漁網が積んであった。漁師たちは、網と一緒に海に落ち、このことが、事故を大きくした。

 その夜、僕は、異様な雰囲気を感じて目が覚めた。寝床から這い出すと、縁側で母と祖母が、誰かと話し込んでいた。近づいて話しかけようとしたら、「お前はあっちに行ってろ」みたいなことを言われたのを覚えている。
 事故は、南伊豆町の妻良沖で起きた。妻良の漁協から村の漁協に事故の状況を伝える連絡が続々と入ってくる。漁協に届いた連絡は、口伝いで村の人たちに広がっていった。
 父は、消防団員として、妻良に向かって出て行った。今は、車で飛ばせば1時間もかからない所だが、当時は、未舗装の曲がりくねった山道しかなかった。

 翌朝、僕は幼稚園に行くために玄関にいた。すると、祖母に連れられた祖父が、浜の方から歩いて来るのが見えた。仲間の船に乗せられて帰ってきたのだろう。祖父は裸足であったが、新しい上下の服を着ていたそうだから、妻良の人たちに着せてもらったものかもしれない。
 祖父は、玄関先に立っている僕を見つけると、僕の名前を呼び、抱きついてきた。祖父が泣いていたのを覚えている。僕は、ようやく、大変なことが起こっていたのだと分かった。

 村では、5件の葬式が出た。

 事故の状況について、「滅多なことを云うもんじゃ無い」と、祖父は家族に釘を刺していたらしい。狭い村だ。濃くて複雑な人間関係の中で暮らしていたから、不用意な発言が、どこにどう伝わっていくか分からなかった。
 妻良の人たちには、いろいろと世話になったと聞いた。救助されて最初に与えられたのは、お湯で、次に重湯が出てきたという。

 祖父は、その後も漁師を続けていたが、次第に駿河湾のアジの漁獲量は減少していった。簡単に云ってしまえば資源の枯渇だろうが、年寄りの話だと、もっと昔はアジなど捕れなかったそうだから、アジが捕れたのも、捕れなくなったのも、自然界の大きな変動の1つに過ぎないのかもしれない。

 
 「えびす丸海難事故」についての僕の記憶は、縁側で話し込んでいた祖母たちの姿と、祖父に抱きつかれたことである。これらは、僕が辿ることのできる最も古い記憶の1つだ。
 そして、この記事を書きながら気づいたことであるが、あの時、涙を流して僕に抱きついてきた祖父は、今の僕と同い年である。 

2017年9月24日日曜日

「スカボローフェア」サイモン&ガーファンクルfeat.巡音ルカ

 サイモン&ガーファンクルと云えば、映画「卒業」ですよね。ダスティン・ホフマンが主演し、1968年に封切りされたこの映画は、感動の(?)ラストシーンと全編に流れるポール・サイモンの楽曲で、青春映画の最高峰とされています。
 映画で流れてくる楽曲は、「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア」「4月になれば彼女は」「プレジャー・マシーン」そして、この映画のために作られたと云う新曲「ミセス・ロビンソン」です。
 
 有名な映画なので、テレビの映画劇場でも放送されましたし、それを見た覚えもあますが、ナンと、僕は、この映画を劇場で見ているんです。

 中学校を卒業した春休みのことでした。義務教育の間はクラス替えがあるにしても、皆、同じ学校に通っていたわけで、それが高校進学では、別々の学校に進むことになります。そんな卒業式と入学式の間というのは、何とも云えない「おセンチ」な気分ですよね。そんな時に、隣町の映画館に「卒業」がやってきたんです。卒業の季節なんで、ウケるだろうってことで、何年振りかで再上映したんだと思います。
 もちろん、サイモン&ガーファンクルにハマっていた僕らは、喜んで見に行きました。男子と女子、それぞれ4人ぐらいのグループだったと思います。1対1じゃ付き合えない、典型的な中学生のグループ交際でした。まだマクドナルドなんて無い時代でしたから、中学生でも入れそうなカレースタンドで昼飯を食べて、それから・・・忘れてしまいました。

 肝心の映画の内容は、ほとんど理解できてなかったと思います。しばらくしてテレビで放映されたのを見てやっと分かったってところでしょうか。って云うか、ウブな田舎の中学生ですからね。彼女の母親と何であんなことになるのか理解不能なのも当然です。でも、何となく羨ましいなあ、なんて心の底では憧れましたが・・・。
 花嫁を奪ってしまうという、有名なラストシーンは、感動するもなにも「こんなことになって大丈夫なの?」って、不安な気分が先立ってしまい、僕的には後味の悪い作品でしたw

 音楽は、分かりましたよ。あっ「サウンド・オブ・サイレンス」だとか、「スカボローフェア」だとか。当時は、知っている音楽が流れてきただけで、嬉しかったんですけど、今思うと、とってつけたような感じに思います。もともと、既存の楽曲を当てはめたわけですから、歌詞の内容が、映画の中身とリンクしている訳でもないし。主題歌はともかく、歌詞付きの音楽がサウンドトラックというのは、映画的には、どういうものなんでしょうか。

 映画にも使われていた「四月になれば、彼女は」です。僕は、この楽曲に憧れて、ついにピアノでスリーフィンガーが演奏できるようになったんですよ。


 今回貼り付けさせていただくボカロカバーは、「スカボロフェア」になります。この曲は、世界中でホントにたくさんのボーカロイド作品が発表されています。他の楽曲と桁が違います。唄わせやすいとか、挑戦させたくなるとか、様々な理由があると思いますけど、優れたカバー作品が、新たなカバー作品を誘発するってこともあったかと思います。伴奏のMIDI音源が公開されたりすれば、カバー作品作成の敷居も少し下がるでしょうし。
 で、たくさんの作品からセレクトさせてただいたのが、こちらになります。


 S&Gファンの方でなくともご存じかと思いますが、「スカボローフェア」は、正確に云うと、彼らの楽曲ではありません。映画で使われていた「スカボローフェア」は、イギリスで古くから歌われていた作者不詳の伝統的バラッド「Scarborough Fair」に、彼ら創作の歌詞(反戦歌)とメロディーを被せたものを「スカボローフェア/詠唱」として1966年に発表したものになります。「Scarborough Fair」は、400年近く前には原詞が存在していたことが確認できるそうですから、ものすごい古謡になります。
 オリジナルの部分と、加えられた部分、ともに意味深な歌詞の解釈は、僕の手に負えるものではありませんが、単純に1つの楽曲、歌詞の意味もよく分からない洋楽の1つとして聴いた場合、この詠唱の部分があればこその名曲に思いますし、このデュオこそがサイモン&ガーファンクルの真骨頂に思います。

 ボカロカバーにも、詠唱の部分の付いている作品と付いていない作品があります。同じ、又は異なる2体のボーカロイドに歌わせた場合、最も難しいのが2つの旋律のバランスだと思います。ポール・サイモンとアート・ガーファンクルだったら、阿吽の呼吸ってところでしょうけど、機械はそういうわけにはいきませんからね。

 ところが、YouTubeにアップされている彼らのライブ動画の「スカボローフェア」は、詠唱タイプのものではありません。確かに、主旋律でハモった場合、3人いないと歌えないんですが、何故、詠唱の部分の方をカットするのでしょうか。あからさまな反戦歌としての部分が敬遠されたのでしょうか。この辺の事情は、S&Gファンの方々に御教授いただきたいところです。

 そういえば、中学生の時「スカボローフェア」と云ったら、「違う!スカボローフェア/詠唱だ。」って、偉そうに言い返されたことを思い出しました。でも、今は、そんなウンチクを云う奴はいないんじゃないでしょうか。カバー作品を投稿しているボカロPさんも、それほど意識して無いように感じますし、詠唱の部分は、単なるバックコーラスであって、有っても無くても、という扱いになった感すらあります。

 イングランドの伝統的バラッド「Scarborough Fair」は、サイモン&ガーファンクルによって、「スカボローフェア/詠唱」として、世界中に広まり、スタンダードになるにつれ「スカボローフェア」に戻っていった。

 と、巧いこと云ったつもりになったところで、お終いは「スカボローフェア/【詠唱】」です。映画の名場面集とともにサウンドトラック盤で。

2017年9月23日土曜日

「明日に架ける橋」サイモン&ガーファンクルfeat.巡音ルカ

 サイモン&ガーファンクルに出会ったのは、中学生の時だった。もちろん「サウンド・オブ・サイレンス」とか「コンドルは飛んでいく」などは、もっと前から聞いていたと思うが、これらの作品が、彼らの楽曲であることを認識したのが、その頃ということである。

 僕も、当時の中学生が、皆そうであったように、ギターにハマり、「ビートルズ」にハマり、「NSP」や「かぐや姫」にハマっていたから、当然「サイモン&ガーファンクル」にもハマることになった。ただ、ギター仲間が集まってコピーしようにも、彼らの楽曲は、とても中学生の手に負えるような代物では無かった。僕らにとって、サイモン&ガーファンクルは、演奏するもので無くって、聴くものだった。

 僕は、「グレーテスト・ヒッツ」というベストアルバムを借りてきて、カセットテープにダビングして聴きまくっていた。さらに歌集を買ってきて、なんとか伴奏ができないものかと、オルガンを弾きまくった。おかげで、完全に自己流ながら、ピアノでスリーフィンガーができるようになった。
 「明日に架ける橋」も、ギターコードを頼りに耳コピでピアノ伴奏に挑戦した。他の曲に比べれば、コピーしやすい方だったと思う。もちろん、人に聴かせられるレベルでは無かったけど。
 
 僕が中学生の時には、彼らはすでに解散していた。当時、僕が知っている楽曲は20曲あまりだったと思う。彼らには、僕の知らない名曲がまだまだあるものだと勝手に思っていた。彼らの活動期間が、わずか6年間だったということを知ったのは、すっと後のことだった。彼らがリリースしたアルバムは、数枚しかないそうだから、おもだった曲は大体知っていたことになる。
 
 それらの楽曲群の中で、「明日に架ける橋」が異質であったのは、子どもだった僕にも分かった。まとわりつくようなデュオでなかったし、ピアノ伴奏だったし。
 
 S&Gファンに云わせると、「明日に架ける橋は、良い曲なんだけど、好きな曲では無いかな」ってところだろう。この曲が、サイモン&ガーファンクルの代表曲とされることには異論も多いと思う。
 確かに、サイモン&ガーファンクルがやらなくても、って感じはある。でも、ポール・サイモンが作ったことには違いないし、彼はこの曲ができたとき、生涯最大の傑作だと、周囲に語っていたらしい。

 ウィキペディアによると、この曲は、ポール・サイモンがゴスペルに影響を受けて作った曲なんだそうだ。Gのキーで作曲され、ポールはファルセットで歌うつもりだったらしいが、うまくいかなかったので、キーをE♭に下げて、アート・ガーファンクルが歌うことになったとのことだ。


 この曲が作られたのは、二人の関係が危機的状態に陥っていた頃だった。

 全く同じ頃に、ポール・マッカートニーも「レット・イット・ビー」を出している。この2つの楽曲は対比されることが多い。ピアノ伴奏だし、ゴスペルの影響を受けているし、グループ解散の危機の時期だったし。名曲とは、悩み苦しんだときに生み出されるもの、と云うことだろうか。
 ただ、ポール・マッカートニーが、「Let It Be」と、全てを悟り、放り投げてしまったのに対して、ポール・サイモンは、「Like a bridge over troubled water」と、もがき続けた。

 1970年、アルバム「明日に架ける橋」を最後に、サイモン&ガーファンクルは解散してしまう。

 ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、完全に決別したわけではなくって、その後も、二人でステージに何度か立っている。復活ステージのライブ動画も、YouTubeにはたくさんアップされている。
 でも、「明日に架ける橋」を歌うときは、何となく、しっくりきていない感がある。ヒット曲だから歌わないわけにはいかないし、仕方なく・・・、って感じだ。
 最大ヒット曲が、最も「らしくない曲」って云うのは、あることかもしれないが、ここまであからさまなのも珍しい。

 「明日に架ける橋」は、プレスリーをはじめ、多くのアーティストにカバーされることになる。普通、カバー曲っていうのは、「やっぱり本家には敵わない」ってことになるものだが、この曲に限れば、誰が歌っても、それなりに似合っている。「レット・イット・ビー」が、誰がどうカバーしても、ビートルズの楽曲でしか有り得ないのと対照的である。
 特に、反アパルトヘイトの象徴歌となった、ソウル歌手「アレサ・フランクリン」のゴスペルカバーは有名で、南アフリカでは現在も学校や教会で歌い継がれているとのことだ。ところが、この曲がポール・サイモンによるものであることを、ほとんどの南アフリカの人は知らないらしい。名曲とはそういうものなのかもしれない。

 「明日に架ける橋」は、サイモン&ガーファンクルの代表曲とすることに異論があるにしても、ポール・サイモンが生み出した名曲であるのは確かだ。

 で、いくつかあるボーカロイドカバーで、貼り付けさせていただくのは、この作品。かなり初期の作品なのだが、ボカロが最も盛んだった頃の作品には優れたものが多い。バージョンアップを重ねた最新型のボーカロイドも、当時のボカロPさんの熱意には敵わないというのだろう。


 サイモン&ガーファンクルについて語っておきながら、「明日に架ける橋」だけでお終いというのもナンですけど、今日のところは、ここまでです。

2017年9月18日月曜日

松浦亜弥さん移籍について、アップフロントの神対応が話題になってる!?

 とにかく、めでたい。ありがたい。
 何がありがたいかって、ブログのネタを提供してくれたことです。
  ここんところ、このブログって何なんだか、自分でも分からなくなってましたからね。

 何の活動もしてないのに、移籍話がネットニュースになるんですから、松浦亜弥さんもまだまだ捨てたもんじゃ有りません。
 自慢になりますけど、「松浦亜弥さんが活動を再開するとすれば、それは慶太氏の後押しがあったとき。」って、今年の3月に書いた通りになりつつありますしね。

 ただ、ネットニュースに対するコメントの多くが、松浦亜弥さんの活動再開についてでなく、事務所の対応についてなんですよ。どうも、そっちに注目がいっちゃってるみたいです。

 アップフロントのホームページによると、

 【・・(略)・・・この度の契約期間満了に伴い今後の活動に関して本人と話し合った結果、弊社との専属マネージメント契約を円満に終了する結論へと至りました。】

 と、あります。自ら「円満に」って言っちゃうところが面白いですね。で、この後、「長い間、応援ありがとうございました。」で終わっていいのに、何故か続きがあるんですよ。

 【松浦は、今後は夫である橘慶太氏の個人事務所に籍を移しますが、本人に関する問い合わせ等は、しばらくの間、弊社にて対応させていただきます。】

 「夫である橘慶太氏の個人事務所」って、やめたタレントがどこに行こうが関係ない話だと思うんですけど、しかも、「夫である橘慶太氏」ってわざわざ云うんですから。さらに、9月15日付けで契約満了なのに、「しばらくの間、弊社にて対応」するんだそうです。

 そして、結びの言葉が、

 【今後とも松浦亜弥へ皆様のお引き立てのほど、宜しくお願い申し上げます。】

 円満移籍と云われる所以ですね。このコメントが、今時珍しいと話題になって、アップフロントの好感度が上昇しています。解雇されても仕方ないくらい何もしてませんでしたからね。

 アップフロントに在籍したままでは、松浦亜弥さんの活動を慶太氏がプロデュースするのは、無理な話だったのでしょう。ただ、文面から判断すると、アップフロントは完全に縁を切ったわけでも無いように思えます。
 何としても夫のプロデュースを受けたい松浦亜弥さんと、活動を再開させ影響力を残したいアップフロント、その妥協点が「個人」事務所への移籍だったのではないでしょうか。松浦亜弥さんが「独立」でも良かったように思いますが、「夫の事務所に移籍」にしたのは、今後の活動への強い想いからかもしれません。

 アップフロントが「円満」を強調しているってことが何よりです。個人事務所では、ライブ1つ開くのも、いろいろと苦労があると思いますが、コットンクラブとか、使わせてもらえるかもしれませんし。

 とは云っても、厳しいことは確かだと思います。それなりの覚悟が無くてはできない決断だったはずです。悠々自適に暮らしていくんだったら、面倒見の良いアップフロントにずーーーっと在籍していれば良かったんですからね。
 こうなったからには、「何も無いということだけは無い」のは確かなことかと思います。

 まあ、あまり期待しすぎるのも、後が辛いですから、このくらいにしておきます。「解雇」だと格好悪いから「移籍」にしただけかもしれないし・・・・。