2017年12月10日日曜日

インフルエンザへの現実的な備えとは

 インフルエンザへの備えとして、まず考えるのが予防接種です。ところが、今年は、インフルエンザのワクチンが不足しているとのこと。で、原因を検索してみました。すると「卵馴化による抗原変異が起り難いとされて製造が始まっていた株が、増殖効率が悪いということが分かって、改めて別の株で作り直しているため」と出てきました。
 まあ、有精卵だってインフルエンザウイルス株だって生き物ですから、人間の思い通りにはなりません。有精卵はウイルスに増殖して欲しくありませんし、ウイルスだって抗体なんか作って欲しくありませんから、お互い折り合いをつけて共存しようとするわけです。でも、それじゃあワクチンが作れませんから、その年に流行りそうなウイルスで抗原変異を起こさなそうな奴をセレクトして、ワクチン製造をしているそうです。ところが、今年選んだ奴がトンデモ無い怠け者で、通常のウイルスの7割しか増殖しなかったらしく、このままじゃあ、予定通りのワクチンが製造できませんから、別の株を使って作り直しをすることになったみたいです。
 ですから、ワクチンは、不足しているというよりも、やり直した分、製造が遅れていると云った方が正しいのかもしれません。

 さらに、このことがニュースになって流れると、一気に需要が高まって、不足に拍車がかかってしまいました。数量限定と云われると購買意欲が高まるという消費者心理ですね。

 僕も、数年前から世間の流れに乗って、インフルエンザの予防注射をしていますが、いつもやっている病院が、成人の接種お断りになってしまいました。で、近所の医院を検索しましたら、ホームページに「本日ワクチン入荷。在庫あります」って出ているんですよ。それで、のこのこ行きましたら、「本日の分は終了しました」って張り紙が・・・。家に帰って改めてホームページを見ましたら、「次回入荷予定は11日です」って。僕が出かけている間に更新してたみたいです。そのうちに「在庫あと3本」とか表示されるのではないかと、もう完全にAmazonです。

 で、予防接種は、自由診療ですから、価格の設定は医院ごとに違います。僕の近所で調べましたら、完全予約制のところが4,300円。近日入荷で先着順のところが3,300円。当分の間老人優先のところが2,500円となっていました。まるで相談しているかのような、見事な価格設定です。
 
 まあ、2,500円のところで受けようかと思います。ですから、「しばらくはインフルエンザに罹らないように気をつけます」って云いたいところですが、僕は、インフルエンザから逃れる手立てなど無いと考えております。インフルエンザウイルスに対しては、手洗い・うがい・マスクの効果は、無病息災のお守りとほぼ同等です。頼れるのは自己免疫力のみ。
 ですから、インフルエンザに備える第一は、自己免疫力を低下させないように心がけることですが、これまた、具体的な手立てなど、あってないようなものです。

 となると、備えとは、罹らないようにするのでは無くって、罹ったときに困らないように段取りをしておくことになります。地震の備えと同じです。日本に住んでる限り、地震に遭わないように気をつけるなんて無理なこと。予知もほぼ不可能とあれば、備えとは、起きたときに困らないようにすることです。
 「インフルエンザに罹ったので、明日から休みますから、予てからの手筈通りに、あとは宜しく。」というのが、理想的で最も現実的なインフルエンザへの備えと云えます。

 それに、熱が下がってますけど、念のためにあと2日休みます。なんて最高のバカンスじゃないですか。何をして過ごしましょうか。それらも併せて、今のうちから計画を立てておきたいと思います。

 この、いつ休んでも大丈夫という安心感(備えあれば憂い無し)こそ、自己免疫力を低下させない手立てであります。

2017年12月8日金曜日

山下達郎「クリスマス・イブ」とJR東海「X'MAS EXPRESS」

 今年もこのネタ、使わせていただきます。

 まずはこちらから。


 結婚式の披露宴で流された映像みたいです。何年か前まで、このような動画を余興で流すのが流行っていたようですね。YouTubeにもたくさんの類似作品がアップされていますが、これは抜群のデキです。カメラワークも素晴らしい。
 では、どのくらい完コピできてるか検証してみましょう。CM女王「牧瀬里穂」の記念すべきデビュー作。こちらがホンモノですよ。


 旧名古屋駅が東京駅八重洲口になっていますけど、似たような場所を探してくるものですね。階段の降り方なんて完璧です。正に完コピのファイル名に恥じない再現度です。

 本家の牧瀬里穂さんのCMは、シリーズ2作目にして最高傑作と呼ばせていただきます。牧瀬さんは、当時17歳。他のシリーズ作品と比べると一番幼くって、東京の大学に行った彼氏がクリスマスに名古屋に帰省してきたという設定なんですが、物語の続きを見ている側に想像させるという演出が、なんとも胸キュンであります。そして、この作品を可愛らしく魅せている最大の理由は、焦らされることの多い女の子の方が、焦らす役であると云うところです。
 CM撮影は、終電が到着した後に行われたそうで、出てくる人たち全てエキストラさんなんですよね。牧瀬さんは、これがタレントになっての最初の仕事だったようで、CMの撮影現場の全てが物珍しかったと語っています。
 このCMが放映された1989年はWinkの絶頂期と同じ平成元年です。1989年の年末が如何に素敵な時だったのか改めて思いました。
 牧瀬さんは現在45歳。セレブ婚をされて、最近は露出も少なくなりましたけど、3年ほど前には白髪染めのCMにも出ていたみたいです。誰もが憧れる40代と云うことですね。

 さて、CMにでてくる名古屋駅は、CMの4年後に取り壊され、今はJRセントラルタワーズとして生まれ変わってます。僕も、初音ミクのライブに参戦するために、久しぶりに名古屋へ行きましたけど、とにかく広くって、人が多くって、CMの面影なんて全然ありませんでした。それから、駅周辺の再開発も凄くって、高層ビルがジャンジャン建てられてましたよ。


 名古屋駅の再開発は、バブル崩壊の時期に始まったので、駅舎を壊しちゃったものの建てる見込みが無くなったなんて、大ピンチだったときもあったみたいです。日本最大の地方都市なんて云われていた名古屋が、数々の苦難を乗り越えて、大都会として生まれ変わったってところでしょうか。でもそれは、X'MAS EXPRESSのCMロケには使えない街に変わってしまったと云うことでもあります。もしX'MAS EXPRESSがリバイバルされるとすれば、今度のロケ地は三河安城駅とかになるかもしれません。

 このCMで流れてくる、山下達郎さんの「クリスマス・イブ」は、ギネスにも載るほどの超ロングヒット作品です。ボーカロイドカバーもたくさんあるんですが玉石混淆って感じ。その中で、今回紹介させていただくのは、「水晶」さんの投稿作品になります。
 ボーカロイドは、「GUMI:Whisper」。お勧めは、「ミク」と「リン」のコーラスが入ってくる2分過ぎからでしょうか。


「水晶」さんは、毎年、この季節になると、「クリスマス・イブ」のカバー作品を投稿されています。このテイクは「GUMI」による2013年の作品で、昨年は「初音ミク」のテイクを投稿されてました。今年も素敵なカバーを投稿していただけるものと思います。

 お終いは、同じく2013年に「クリスマス・イブ」発売30周年の記念シングルに収録されていたMVです。15歳の「広瀬すず」ちゃんと41歳の「牧瀬里穂」さんが共演したことでも話題になりました。2人が出てくるのは、2:30のところ。ちょうど親子くらいの歳の差ですけど、お二方とも可愛らしいです。

     
 ついに、平成時代終了のカウントダウンが始まりました。平成の30年間で変わったのは名古屋駅だけではありません。でも、30年間、色褪せないものもあるってことで・・・。

2017年11月23日木曜日

「ごんぎつね」~自筆版で味わう新美南吉の魅力~

 1年半ほど前に、新美南吉の自筆版「ごんぎつね」に関する記事を10回にわたり投稿させていただきました。以来、学校の先生と思しき方々のアクセスがあり嬉しく思います。自筆版の「ごんぎつね」など知ったところで、学校の授業には何の役にも立ちませんでしょうが、その存在を知ることは、新美南吉を語るために必要なことと思います。今回、自筆版「ごんぎつね」を一人でも多くの方に知っていただきたく、1本の記事にまとめて再掲載することにしました。 

                                                
(1) ~3つの「ごんぎつね」~

 「ごんぎつね」として伝わる話は、3つあるとされています。

 1つめは、知多半島の猟師の間で口伝されてきたといわれる「権狐」です。物語の冒頭にある、南吉少年が茂助(茂平)から聞いた話と推測されます。茂助爺が実在の人物かどうかは、分からないそうですが、いわば「茂助爺のごんぎつね」です。
 2つめが、新美南吉が17才の時に創作した「自筆版ごんぎつね」です。
 そして3つめが、1932年に雑誌「赤い鳥」1月号に掲載されるにあたって、「鈴木三重吉」氏によって改作された「赤い鳥版ごんぎつね」です。教科書に掲載され、書店に並んでいる「ごんぎつね」は全てこの赤い鳥版になります。

 1つめの「茂助爺のごんぎつね」は、童話ではなく、民間伝承です。民間伝承は、不思議ではあるが事実とされていることを、後の人々に伝えるというものです。「ごんぎつね」は、よくある「昔々ある処に」ではなく、具体的な地名、人名で始まります。この、童話としては異色の始まり方は、この物語が完全な作り話でなく、事実を元にした民間伝承であることを表していると思います。物語に真実性を持たせるための技法とも考えられますが、「ごんぎつね」には、元となる話があったと考える方が自然かと思います。
 物語に出てくる「中山様」の末裔、「中山元若」は、明治になって岩滑(やなべ)に居住し、家族ぐるみで新美南吉と交流があったと云われています。中山元若は、小学校の校長などを務め、その妻、「中山しゑ」は、幼き日の新美南吉に民話を語り聞かせていたそうですから、もしかしたら「中山しゑ」が、「茂助爺」のモデルなのかもしれません。

 「茂助爺のごんぎつね」は、兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとされています。狐が、償いのために人間の家へ栗や松茸を持ってくると云うのは、どう考えても有り得ない話です。しかし、物語が兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとすれば、十分に有り得る話になります。
 狐などの野生動物が村に出没して、人家や畑を荒らすことは、現在でも普通に起きています。村人が獲った魚を、狐が盗むこともあるでしょう。そして、その村人の家で葬式が出たのと時期を合わせるかのように、狐が何らかの原因で村に出没しなくなった時、村人たちは、葬式を見た狐が反省し、悪戯をやめたのだと考え、伝承が生まれたと推測できます。
 そういう観点で、改めて物語を読むと、葬式の前と後では、確かに作風の違いがあるように思えます。「ごんぎつね」は民間伝承として伝わっていた話に、新美南吉が償いをテーマにした、創作部分を継ぎ足してできた物語であると考えることができそうです。

 次は、2つめと3つめの「ごんぎつね」についてです。
 沢田保彦著「南吉の遺した宝物」によると、50年ほど前に、半田市の中学校の国語教師、間瀬泰男氏が、教え子から1冊のノートを託されたとありました。その中学生は、南吉の異母弟、新美益吉氏のご子息で、ノートは、益吉氏が兄の遺品整理の際に手に入れたものだったそうです。
 ノートには南吉の自筆で、何作かの童話が書かれ、その中に「赤い鳥に投ず」とメモ書きされた「ごんぎつね」がありました。それは、広く伝わっている「ごんぎつね」と、ストーリーは変わらないものの、大きく表現方法等が異なるものでした。赤い鳥に掲載されるにあたって、「ごんぎつね」に大幅な改作がされていたという事実が明るみになったのは、この時からだとされています。
 「ごんぎつね」は、文字数にして、約4500字の物語だそうです。そのうち削除が約800字、加筆が約700字といいますから、改作の部分は、かなりの量になります。
 ただ、このような改作は、投稿された他の作品でもおこなわれていたようです。児童文学という分野を開拓した鈴木三重吉氏から見れば、新美南吉は、期待の大型新人とはいえ、田舎の僅か17才の代用教員です。未熟だと断定した彼の文章を、掲載に値する児童文学の作品とすべく添削することは、三重吉氏からすれば当然なことでした。また、会話文が方言で書かれ、民話的要素が強い自筆版をそのまま掲載するわけにはいかなかったとも考えられます。三重吉氏にとっては、民話と童話は、はっきりと区別されるべきものだったのでしょう。
 ちなみに、鈴木三重吉氏は、同誌に投稿された宮沢賢治の作品を全て不採用にしたことでも有名です。

 とは言っても、鈴木三重吉氏が「赤い鳥」を創刊しなければ、日本に児童文学という分野が確立するのは何十年も遅れたでしょうから、鈴木三重吉氏の功績は認めざるを得ません。
 但し、三重吉氏の改作は、作品を分かりやすく、ドラマチックにするものであり、改作によって「ごんぎつね」が文学作品として完成したという意見には賛成できません。なぜならば、2つの「ごんぎつね」を読み比べれば、どちらが優れた物語であるかは、容易に理解できることだからです。

 南吉は、この改作については、生涯何も語ることがなかったそうです。


(2) ~削除されたプロローグ~

 【これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。】

 これは、「赤い鳥版ごんぎつね」の冒頭文です。三重吉氏による最大の削除がされているのが、この冒頭部分です。「自筆版ごんぎつね」では、次のようになっています。


【茂助というおじいさんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助じい」と私たちは呼んでいました。茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。
 私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 まず、茂助爺が茂平になっています。何故、茂助では、だめなのでしょうか。この後の登場人物に、弥助とか加助が出てくるので、区別しやすくするためとも言われていますが、茂平という名前からは、何か、村の物知りのご隠居さんのような人物を想像します。村の子供たちを集めて、のんびり昔話を聞かせるような人物の名前は、茂平の方が似合うと、三重吉氏は思ったのかも知れません。このように、三重吉氏の改作は細部にわたり行われています。

【茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。】

 「若衆倉」ですが、一般的には、「若衆宿」と言われている、村の青年団の集会所のことだと思われます。新美南吉も13才になると地元の山車組に加入したそうです。山車組の一番の活躍の場は、村の祭りです。この祭の様子は、「狐」という話に出てきます。もっとも、南吉は、おとなしい性格だったそうですから、若衆倉での役割は、庶務や会計の仕事を手伝っていたそうです。
 これだけ現実感のある記述が出てくるということは、少なくとも、若衆倉の前の日溜まりで、子供たちがよく遊んでいたというのは、実際にあったことのように思います。

【私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 「顔は覚えていないが、手の大きかったことだけは覚えている。」手を見ればその人の生き様が分かると言いますが、この一文で、今は体を壊して子供と遊んでばかりいる茂助爺が、どんな厳しい人生を歩んできたかが目に浮かびます。南吉の巧みな描写が味わえる秀文です。
 この削除された冒頭部分は、確かに、この後のストーリーとは、一切関係ありません。しかし、南吉にとって「ごんぎつね」は、自分の故郷に伝わる、そして故郷を舞台にした大切な話で、決して、「昔々在る処」の話ではありませんでした。だからこそ、このプロローグが必要だったのです




(3) ~中山様というお殿様~

 冒頭部分には、茂助爺ともう1つ、中山様の記述があります。赤い鳥版です。

【むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。
 その中山から、すこしはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。】

 自筆版です。
【むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】
 
 まず、「徳川様が世をお治め・・・」という部分が削除されていますが、沢田保彦氏の著書「南吉の遺した宝物」によると、氏は、この作品が投稿された昭和7年という時代が関係しているのでは、という分析をされています。昭和7年という年ですが、3月には、満州国が建国され、5月には、「5・15事件」が起きています。南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、正に、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代です。「皇国史観、日本は万世一系の天皇陛下が治められていた国」という思想が支配していましたから、「徳川様が世を治める」という記述は、都合が悪かったと言えます。南吉は尾張の国の人間ですから、徳川家に対して親しみを持っていたのかも知れません。しかし、一歩間違えば「赤い鳥」そのものが発行禁止の処分を受けたかも知れない、そんな時代だったのです。
 
 ところが、不思議なことに、削除された部分に「わたしたちの村の近くの中山」という一節が加筆されています。ごんぎつねの舞台である「岩滑(やなべ)」は、今は半田市と合併して、半田市岩滑ですが、当時は岩滑村でした。中山は、岩滑村の地名の1つです。ですから、「わたしたちの村の中山」で良いのです。「近くの」を入れてしまうと、中山は、岩滑村の外にあることになると沢田保彦氏は指摘しています。
 三重吉氏の感覚では、村の中にお城があるのは、不自然と思ったのかも知れません。しかし、この「村にお城があった」というのが、岩滑村の人々の誇りだったのです。
 岩滑村の隣は、半田市(当時は半田町)です。半田は、古くから酒や酢の醸造業が盛んで、「ミツカン」の大きな工場もあります。運河があり、鉄道もひかれている大きな町です。隣の岩滑村は田舎の農村に過ぎません。この「村」が「町」に抱くコンプレックスなどは、南吉の作品「疣」などに面白く書かれています。
 ところが、この地を治めていた中山氏の居城は、半田でなく、岩滑にありました。岩滑は田舎だが城があった、というのが村の誇りでした。この心情が、次の記述に表れます。

【中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。】

 「小さなお城に少しの家来と住んでいる。」何て、ほのぼのとした表現でしょう。おとぎの国の王様みたいです。この一文で、中山様がどのような殿様で、いかに村人たちから慕われていたかが分かります。ところが、三重吉氏は、これを

【中山さまというおとのさまがおられたそうです。】

 と、書き換えました。簡潔な記述です。氏が追求していることは、児童文学として、子供にも分かりやすい表現でした。しかし、村人にとっての中山様は、時代劇に出てくるような、農民から厳しく年貢を取り立てるような、お殿様では無いのです。

 さて、この中山様ですが、どのような殿様だったのでしょうか。
 戦国時代に岩滑城主となり、この地を治めたのは、「中山勝時」という武将のようです。ただ、岩滑城については、物語に出てくる「中山」ではなく、1kmほど離れた半田市岩滑中町の常福院にあったとされています。中山に在った城は、中山城と記述されています。どちらも城主は、「中山勝時」とされていますが、2つの城の関係や、物語の城がどちらを指しているのかは、よく分かりません。
 中山勝時は、本能寺の変で織田信忠に従い討ち死にしたと伝わっています。その子孫たちは、徳川将軍家の旗本となったり、水野家に仕えたりしたようです。勝時以降の中山氏、つまり江戸時代の中山氏は、主君に仕える武家であり、大名ではありません。中山様が岩滑の城に住み、この地を治めていたのは、戦国時代のことで、中山様というのは、「中山勝時」に限定されることになります。

 【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】

 自筆版の「ごんぎつね」は、このように話が始まっていきます。「その頃」とは、中山様がいた頃ですから、この記述通りだとすると、「ごんぎつね」は戦国時代の話ということになります。しかし、兵十や村人たちの記述(百姓たちが集まって念仏を唱えているなど)から考えると、時代は、江戸時代末期、あるいは明治時代初期のような印象を受けます。兵十のモデルになったとされる「江端兵重」という人の存在も知られています。「その頃」が戦国時代を指し、「ごんぎつね」の元話が戦国時代まで遡るような古い話であると結論づけるのは、難しいと思います。
 ただし、物語を兵十の母親の葬式まで、すなわち「茂助爺のごんぎつね」に限れば、時代を遡ることは可能です。やはり、ごんぎつねは、古くから伝わっていた伝承に、南吉が継ぎ足して成立させた物語なのかもしれません。

 中山勝時の子孫の中に、尾張徳川家に仕えた系統がいて、御馬廻役や武術師範などを務めていたようです。その末裔「中村元若」氏は、明治になって岩滑に移住しました。中山勝時の子孫が、先祖がかつて治めていた土地に帰ってきたということになります。この中山家は家族ぐるみで新美南吉と交流があり、妻「中山しゑ」は南吉に民話を語り聞かせ、六女「ちゑ」は南吉の初恋の人として知られています。
 中山様は、茂助爺と同じく、物語には、全く関わらない人物です。その中山様を好意的に、物語に登場させたのは、中山家と南吉の個人的なつながりがあったからだと言われています。




(4) ~兵十の殺意を検証する~

自筆版です。
【その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へ入りました。】

続いて、赤い鳥版です。
【その明くる日も、ごんは、栗を持って、兵十の家へ出かけました。兵十は、物置で縄をなっていました。それでごんは、家の裏口から、こっそり中へ入りました。】

 「その明くる日」とか「こっそり中へ」など、表現を強調して印象づけようとする傾向があるようです。「栗を拾って持って行く」のと「栗を持って出かける」は、いかかでしょうか。やっていることは、同じなのですが、拾った物を持って行くというのは、できる範囲でやっているという感じです。しかし、ごんが頑張ってるイメージが強い程、最後の悲劇とのギャップが強調されますから、三重吉氏の意図も理解できないわけではありません。

 当時は、正しい日本語を教育して、普及させるということが重要とされていましたから、恥ずかしいものとされた方言や地方色のある表現を書き換えようとする傾向があります。ここでは、「背戸口」を「裏口」に、そして、もう1つが「納屋」です。納屋は立派な日本語だと思いますが、これを赤い鳥版では、「物置」と書き換えています。物置小屋ならまだ分かりますが、「納屋」と「物置」は、似て非なるものだと思うのですが。

 「納屋」についての世界大百科事典の解説です。
【物を収めておくため,独立して作られた建物。同じ性格の建物には倉と物置があるが,倉が物を長期にわたって保存格納する性格であるのに対して,納屋はある行事や作業に必要な道具を格納し,ときには作業場として使われることもある。また,物置は雑多な物を入れておく建物であるのに対し,納屋は使用目的がしぼられた物を収納する。】

 この中の「作業場として使われる」のいうところが重要です。兵十が、縄をなっているのは、納屋です。ごんぎつねは、栗を納屋に置きますが、物置だったら、気づいてくれるまで何日かかるか分かりません。
 しかし、ここが悲劇の始まりです。今日に限って、兵十が納屋にいるのです。そこで、ごんぎつねは、仕方なく、背戸に回ることにします。今までだったら、納屋に栗を置くだけですから、誰にも気づかれずに済んでいたわけです。

 自筆版です。 
【兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きっと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。
「ようし!」
 兵十は、立ち上がって、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃を取って、火薬をつめました。そして、足音を忍ばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」と撃ってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。】

 赤い鳥版です。
【その時、兵十は、ふと顔を上げました。と、きつねが家の中へ入ったではありませんか。こないだ、うなぎを盗みやがったあのごんぎつねめが、またいたずらをしに来たな。
「ようし。」
 兵十は、立ち上がって、納屋にかけてある火縄銃を取って、火薬をつめました。
 そして足音を忍ばせて近よって、今、戸口を出ようとするごんを、ドンと、撃ちました。ごんは、ばたりと倒れました。】

 ニュアンスがだいぶ違います。赤い鳥版は、「こないだ、鰻を盗みやがった、あのごんぎつねめが」です。自筆版は、「あの時のことを思い出しました。」です。兵十は、ごんぎつねに鰻を盗られたことを忘れていたのです。許せないこととはいえ、その程度の出来事だったのです。それを赤い鳥版では、「盗みやがった」「狐めが」と表現しています。下品な表現ですが、それくらい、鰻を盗られたことを片時も忘れていないし、もの凄く憎んでいることになっています。

 自筆版は、「ちょうど掛けてあった火縄銃をとって、撃ってしまいました。」とあります。兵十は、今日に限って納屋にいたんです。そして、納屋には火縄銃があった。兵十が火縄銃を使ったのは、たまたまそこにあったからです。だから悲劇なんです。偶然に偶然が重なってしまった。素晴らしいストーリーの構成です。
 ところが、赤い鳥版には、不思議な記述があります。「納屋(?)にかけてある火縄銃を取って」と、ここまで、納屋は全て物置と書き換えていたのに、ここだけ納屋のままです。これが最大のミステリーになります。この記述のために、兵十の家には、物置と納屋と2つあることになります。物置にいた兵十は、納屋まで行って火縄銃を取ってくるという記述です。偶然そこにあった凶器を使うのと、わざわざ凶器を持ってくるのでは、心証が随分変わってくると思います。

 多くの研究者は、これを単なる書き換えの見落としとしています。だとすれば、国語の教科書でこの文章を学んだ7000万人ともいわれる国民は、単なるミスのために50年間も物置から納屋へ銃を取りにいったという間違った読み取りをさせられていたことになります。
 三重吉氏の執拗な添削を見る限り、氏が見落としをするとは思えません。これは、あえて残したと推理できないでしょうか。物置と納屋があることにして、兵十の強い殺意を印象づけるために、わざわざ取りに行ったように読みとらせたのではないかと思うのです。(納屋から物置に火縄銃を取りに行くのが普通ですが。)
 自筆版の兵十ならば「殺すつもりは無かった」という言い訳もできましょうが、赤い鳥版の兵十から伝わるのは、明確な殺意です。殺そうとして撃ったのか、思わず撃ってしまったのか。納屋という言葉を1つ書き換えないだけで、これだけの違いが出てきます。

ラストシーン、赤い鳥版です。
【兵十はかけよって来ました。家の中を見ると、土間に、栗がかためて置いてあるのが目につきました。「おや。」と、兵十は、びっくりしてごんに目を落としました。「ごん、お前だったのか。いつも、栗をくれたのは。」ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなづきました。兵十は、火縄銃をばたりと、取り落としました。青い煙が、まだ、筒口から細く出ていました。】

自筆版です。
【兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。「おや。」兵十は権狐に眼を落としました。「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。】

 ラストシーンの書き換えは、最も有名なところです。「うれしくなりました。」を「目をつぶったまま、うなづきました。」と書き換えています。余韻を持たせた終わり方といえます。この「うなずく」というのは、行動であって心情ではありません。「うなずいた時のごんの気持ちを考えましょう。」と質問すると、生徒たちは、何と答えるでしょうか。「最後に分かってもらって良かったな」「撃たれるのは仕方ないな」「何も撃つことは無いだろう」自由に考えて良いのですから、どれが正解でどれが間違えているかを判定することはできません。ただ南吉は自筆版でこう書いています「嬉しくなりました」と。ですからこれが正解となります。
 大方は、三重吉氏の書き換えに好意的です。やはり、作者自ら答えを書いてしまっては、面白くないということのようです。いっそのこと、「ぐったりなったまま、二度と動きませんでした」でも良かったかも知れません。

 赤い鳥版では、兵十の問いかけに、ごんは頷いて答えます。遅すぎたとはいえ、最後の最後に心が通じ合ったと云えます。
 しかし自筆版では、ごん狐は、「ぐったりなったまま、うれしくなりました」です。全てを理解し後悔する兵十の目の前にあるのは、ぐったりなったままのごんぎつねです。兵十の呼びかけにも応えることも無く、「嬉しくなった」というごん狐の想いが、伝わることもありません。兵十は深い後悔の念のまま立ち尽くしているだけです。

 新美南吉生誕100年の時に、ある小学生の感想がネットで話題になりました。それは、「やったことの報いは必ず受けるもの、こそこそした罪滅ぼしは身勝手で自己満足でしかない、ごんは撃たれて当然」というものでした。
 一般的な小学生の感想は、「ごんがかわいそう」でしょうから、結果として、撃ち殺した兵十が非難されるかたちになります。ですから、この児童のように兵十を弁護する立場からの意見が出てくること自体は、悪いことではないと思います。
 ただ、こういう感想が出てくる遠因の1つに、赤い鳥版の改作があるように思えてなりません。兵十の殺意を強調した結果、ごんが大変重い罪を犯しているかのような印象を与えてしまったと言えないでしょうか。
                                       
 兵十は、確かにごんを撃ち殺してしまいましたけど、殺したいほど憎んでいたわけではありませんでした。そして、ごんは、確かに悪戯をしましたが、兵十の母親の死とは無関係です。死をもって償うべきことなんてしていないし、兵十だって、ごんのせいで母親が死んだとは思ってもいないはずです。思っていれば、栗を持ってきたことぐらいで許せるはずなど無い。

 事件の真相は「母親の死に関して、日頃からゴンに恨みを抱いていた兵十が、絶好の復讐の機を得て、ゴンを撃ち殺した」のではありません。「病床の母親に鰻を食べされられなかったことを思い出して、ちょっと懲らしめてやろうと思っただけだった」これが新美南吉が書きたかった真相なのです。


(5) ~ごんのプロファイル~

 自筆版です。  
【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。】

 赤い鳥版です。
【その中山から、少しはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱい茂った森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、辺りの村へ出ていって、いたずらばかりしました。畑へ入って芋をほり散らしたり、菜種がらの、ほしてあるのへ火をつけたり、百姓家の裏手に吊してあるとんがらしをむしり取っていったり、いろんなことをしました。】

 権狐がどこに住んでいたのかという問題は、岩滑の町おこしにも関わる重要な問題です。一般的には、新美南吉記念館から見て北側、矢勝川(背戸川)の向こうに見える権現山(ただし川が境界線なので、此所は、半田市岩滑では無く、隣の阿久比町になる)と考えられています。確かに、記念館前の公園に立ってぐるりと見回すと、権現山は良く目立ちます。
 沢田保彦氏は、権狐の洞を中山の城の近くに設定しています。権狐が川を渡っている描写が無いことのがその根拠のようです。しかし「少し離れた山」という記述を考えると、やはり、記念館から直線で600mほど北側にある、権現山が第一候補のように思います。権現山は、山といっても、比高は32m。こんもりと木が茂っている丘みたいな所です。


 自筆版では、権狐は「一人ぼっちの小さな狐」とありますが、赤い鳥版では「一人ぼっちの小ぎつね」になっています。「小ぎつね」は「子ぎつね」に通じる言葉なので、どうしても「幼い狐」「可愛い狐」という印象がつきまとってきます。ここでは、「小さな」という中に有る「ちっぽけな存在」「とるに足らないもの」という意味が重要になってきます。「小ぎつね」にしてしまうとその辺が弱くなってしまいますから、ここは、やはり「小さなきつね」のままにすべきだったと思います。

 あと「洞」が「穴」になってます。確かに「洞を作る」というのは、違和感が有りますが、恐らく、南吉は「洞は横に広がるもの」「穴は下に広がるもの」と考えていたと思います。
 南吉は、「洞」ともう1つ「洞穴」という記述をしているところもあるのですが、これは、「穴」と書き換えたところと「ほらあな」とそのままで書き換えていないところがあって、三重吉氏の添削も意外と適当なことがわかります。


 その洞(穴)がある所ですが、「いささぎの一ぱい茂った所」となっています。この「いささぎ」ですが、「ヒサカキ」の方言だとのことです。「ヒサカキ」は、仏壇やお墓に供える、いわゆる「仏さんの木」です。権現山には、今でも「ヒサカキ」が沢山あるそうですから、地元の人たちが、お墓参りの季節になると、権現山へ木を取りに行っていて、南吉少年もそのことを知っていたという推理も可能になります。やはり、権狐は、権現山に棲んでいたのでしょうか。
 赤い鳥版は、「しだのいっぱい茂った森の中」になっています。方言を直すのであれば、「いささぎ」を「ひさかき」にすれば十分なんですが、子供は「ひさかき」など分からないだろうと、シダに変えたのでしょうか。どうも、三重吉氏は、権狐の住んでいるところを「ある程度大きな山の奥の薄暗い森の中」に設定したかったようです。そのほうが、権狐の孤独感が強調されると考えたのでしょう。ただ、権狐が、村に悪戯をするためにはるばる山奥からやって来るという設定では、村のことにやたら詳しいことが不自然になります。やはり、権狐は村人の近くで、村の営みを感じながら生きていたと思います。「離れて暮らす」より、「近くにいるのに関われない」方が、孤独感が強いと思いますが如何でしょうか。

 最後に権狐の悪戯が具体的に書かれています。赤い鳥版では、「掘る」→「堀り散らす」、「取る」→「むしり取る」というふうに表現が強調されています。「散らす」を加えて「堀り散らす」としただけで、畑全部を滅茶苦茶にしてしまったような印象を与えます。権狐1匹のせいで、村がメチャメチャにされているかのようにも受け取れます。さらに「いろんなことをしました」と付け加える念の入れようです。ただ、あまり強調し過ぎると「ごんは、殺されて当然」みたいな感想を引き出してしまいますし、第一、そんな危険な狐は、兵十が手を下す前に、誰かがとうに撃ち殺しているでしょう。
 では、何故、南吉は「掘る」とだけにしたのでしょうか。
 1つは、狐の獣害の実態に合わせているのではないかと思います。狐は、肉食が基本ですが雑食性だそうで、餌不足の時は、畑の芋を食べることもあるそうです。さらに、沢田保彦氏によると、菜種殻は、自然発火することがあるそうで、これを土地の人たちは、「狐火」と読んでいたそうです。
 もう1つは、南吉は、権狐をそこまで悪者にするつもりが無かったのでは、ということです。南吉の設定では、兵十が権狐を撃ったのは、偶然が重なった悲劇です。ラストシーンでの兵十の台詞は、自筆版も赤い鳥版もどちらも同じ「ようし」ですが、込められている気持ちは、異なります。赤い鳥版は、「ようし、ぶっ殺してやる」ですが、自筆版は「ようし、懲らしめてやる」です。銃を使ったのは、偶然に過ぎません。兵十は、懲らしめることができれば、使う物は、石でも棒でも良かったはずです。
 南吉は、権狐が、一人ぼっちであることと、悪戯好きであることが、読者に伝われば十分だったのではないでしょうか。


(6) ~鈴木三重吉という人~

 鈴木三重吉氏は、1882年(明治15年)生まれ、広島県出身で東京帝国大学英文学科卒。夏目漱石の門下生。童話雑誌「赤い鳥」を創刊し、日本の児童文化運動の父とされています。
 「赤い鳥」の発刊については、かなりのご苦労があったようで、有名作家に原稿を依頼しても、童話なんて誰も書いたことがないという時代で、なかなか原稿が集まらなかったそうです。そこで、ゴーストライターに書かせて名前だけもらった、などという逸話が伝わっています。
 芥川龍之介が「赤い鳥」に「蜘蛛の糸」を投稿することになった時、彼は、当時すでに大作家でしたが、自分の文章が児童文学として通用するのか自信が無かったようで、鈴木三重吉氏の添削を受け入れる旨の書簡を書いています。三重吉氏の添削は、それほど有名で、一目置かれていました。


 三重吉氏本人は、どのような文章を書いていたのでしょうか。鈴木三重吉氏の代表作「千鳥」の一部分です。夏目漱石が絶賛し、雑誌「ホトトギス」に掲載されたという、氏の出世作になります。

【すると、いつの間にか、年若い一人の婦人が自分の後に坐っている。きちんとした嬢さんである。しとやかに挨拶をする。自分はまごついて冠を解き捨てる。婦人は微笑ながら、
 「まあ、この間から毎日毎日お待ち申していたんですよ」
という。
 「こんな不自由な島ですから、ああはおっしゃってもとうとお出でくださらないのかもしれないと申しまして、しまいにはみんなで気を落していましたのでございますよ」
と、懐かしそうに言うのである。自分は狐にでもつままれたようであった。丘の上の一家の黄昏に、こんな思いも設けぬ女の人がのこりと現れて、さも親しい仲のように対してくる。かつて見も知らねば、どこの誰という見当もつかぬ。自分はただもじもじと帯上を畳んでいたが、やっと、
 「おばさんもみんな留守なんだそうですね」
とはじめて口を聞く。
 「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」
 「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」】

 一番気になったのは、一文が短いことです。「何がどうした」「何がどうした」「誰が何と言った」って感じで文が続いていきます。表現も明確で、何より主語と述語の関係がはっきりしています。
 もう1つは、「と」が多い。「と、言いました。」とか「と、その時」という表現を好んで使っています。これは沢田保彦氏も指摘されているところで、「ごんぎつね」についても、自筆版には無い「と」が、赤い鳥版では加えられていて、こういうところに、添削者の癖が出ているように思います。
 三重吉氏の文体は、氏が英文学者であったということが関係しているように思えます。氏の文章には、英文の翻訳文のような印象があります。情景描写についても、1つ1つの文がクリヤーで、たたみかけるように書いている。ちょうどスライド写真を見ているかのようです。
 それに対して、新美南吉氏の文章のイメージは、ほんわかした感じで、暖かみのある文章です。ただ、ピンぼけ写真みたいなところがあって、何が言いたいのか分からなかったり、その表現必要なのかなと思うものもあったりします。
 そういう観点を持って読んでいくと、赤い鳥版の「ごんぎつね」には、あちらこちらに、三重吉氏らしさが出ています。それは氏が添削をしている以上致し方のないことです。もちろん、三重吉氏は、「ごんぎつね」のストーリーを改ざんしているわけではありませんから、ストーリー展開を追って読んでいる限りは、三重吉氏の文体であろうが、南吉の文体であろうが、あまり気にならないのかもしれません。

 しかし、赤い鳥版「ごんぎつね」を「手袋を買いに」などの他の南吉作品と読み比べたときに、何となく感じる違和感は、やはり改作が原因と言えます。教科書の「ごんぎつね」からは、真の新美南吉像を語ることはできないのです。


(7) ~はりきり網の現場を検証する~


 まず、舞台となった「はりきり網」についてですが、記念館のHPに解説がありました。

 【大雨が降った後に池から落ちてくるウナギを川の下流で捕るための網。普通は待ち網といいますが、川幅いっぱいに“張りきって”使うため、岩滑では“はりきり網”と呼んでいました。】

 2つのことが分かります。1つは、「はりきり網」が方言であると云うことです。にもかかわらず、赤い鳥版でも、そのまま「はりきり網」と書かれています。三重吉氏は、「はりきり網」がどのようなものか分からなかったので、書き換えようが無かったのでしょう。
 そして、もう1つ。「はりきり網」は川が増水した時に使うということです。兵十が増水した川で漁をしたのは、母親にウナギを食べさせるために、危険を承知で敢えてしたわけではありません。木ぎれや枝が網に入ってしまう悪条件の中、何が何でも、今日、ウナギを捕る必要があったわけでもありません。兵十がはりきり網を持ち出したのは、この日がはりきり網の漁にとって好条件の日だったからにすぎません。
 母親にウナギを食べさせたいという想いは同じですが、うなぎを捕るということが、切羽詰まった緊急を要するような事態ではなかったということになります。

自筆版です。
【兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました。】

赤い鳥版です。
【兵十がいなくなると、ごんは、ぴょいと草の中からとび出して、びくのそばへかけつけました。ちょいと、いたずらがしたくなったのです。ごんはびくの中の魚をつかみ出しては、はりきりあみのかかっている所より下手の川の中を目がけて、ぽんぽん投げこみました。】

 やっていることは、同じに思えるんですが、微妙にニアンスが違います。自筆版では、魚籠の中の魚を見たときに、ふと悪戯心が出る、いわゆる「できごころ」ってことですが、赤い鳥版では、最初から、悪戯をするつもりで、魚籠に近づいて行くことになってます。
 自筆版の場合、蓋が無いから、狐でも中の魚が見えた、だから悪戯したくなったという流れです。まるで、蓋さえあれば悪戯しなかったみたいな言い方です。

 では、ウナギの件です。自筆版です。
【とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、
「このぬすっと狐めが!」
と、すぐそばでどなりました。】

 赤い鳥版です。
【ごんは、じれったくなって、頭をびくの中につっこんで、うなぎの頭を口にくわえました。うなぎは、キュッといって、ごんの首へまき付きました。そのとたん、に兵十が、向こうから、
「うわあ、ぬすっとぎつねめ。」
と、どなりたてました。】

 自筆版ですが、面白い表現を使っています。「兵十の声が、すぐそばで怒鳴りました。」です。「声が怒鳴る」とは変わった表現です。赤い鳥版では、「兵十が向こうから怒鳴り立てました。」と一般的な表現に書き換えられています。南吉にとっては、実験的な表現だったのでしょうが、削除されてしまいました。

 ここで、考えたいのは、その時の台詞です。自筆版は「この盗人狐めが」ですが、赤い鳥版は「うわあ盗人狐め」です。赤い鳥版は明らかに慌ててます。落胆の色も隠せません。ただ、慌てながら怒鳴るのは、いささか不自然ですから、「わめく」とか「叫ぶ」が適当かと思います。
 自筆版の方は、叱り飛ばしている感じです。悪戯する方も、される方もお互い相手のことを承知している。村人たちは、権狐の悪戯に迷惑してますけど、追い払えば良しって感じで、権狐は、ギリギリのところで存在を黙認されているように思えます。
 考えてみれば、網は、まだ張った状態ですので、もう少し待てば、次の魚がかかってくるわけで、逃げた狐に関わっている暇があったら、次の漁の支度をした方が良いはずです。だから追いかけて行かなかったのでしょう。

自筆版です。
【権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。】

赤い鳥版です。
【ごんはほっとして、うなぎの頭をかみくだき、やっと外して穴の外の、草の葉の上にのせておきました。】

 自筆版の「うなぎのつるつるした腹は、・・・」というのは、南吉が好んで書きたがる表現です。赤い鳥版では、物語の進行に不要と云うことで削除されていますが、南吉の作品を味わうという目的で「権狐」を読むならば、こういう記述は無くてはならない部分だと思います。
 気になるのは、「鰻の頭を噛み砕き」のところです。ずいぶん残酷な表現です。三重吉氏の意図は、何だったのでしょうか。権狐の残忍さを表したかったのか、野生の一面を見せたかったのか、童話ですからもう少し気の利いた表現がなかったんでしょうか。そもそも、この記述、必要だったのでしょうか。
 権狐は、鰻を聖なる木である「いささぎ」の葉の上にのせます。これが何を意味するのか分かりませんが、捨てたのでは無いことだけは確かです。赤い鳥版は、「いささぎ」を「シダ」に書き換えてしまったので、草の上にのせましたと書かざるをえません。頭を噛み砕かれた鰻が草の上に置いてあるという残念な情景になってしまいました。

 兵十が、はりきり網を持ち出した本当の理由や、兵十の母親の死と鰻との関係は、はっきりと書かれていませんが、子どもだったら、鰻を食べれば病気が治るって考えるかもしれません。権狐が兵十の母親の葬式に出会うのは、この10日後のことです。この後、ごんは、兵十の母親の死と、自身がウナギを盗ってしまったことを結びつけて、勝手に自己反省します。これは、10日後という絶妙な設定がそう思わせたのであって、この物語の良くできているところです。
  

(8) ~栗は鰻の償いなのか~

 兵十の母親の死を知った権狐は、一人(一匹)穴の中で思いを巡らせます。

自筆版です。
【その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。
「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」
 こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。】

 赤い鳥版も此所のところは、大体同じようなものです。ただ、自筆版では、権狐は自分のことを「自分」か「俺」と言いますが、赤い鳥版では、「俺」と「わし」です。「俺」と「僕」などは、併用したり、使い分けたりすることもありますが、「俺」と「わし」を併用する人は、いませんから、ここは、どちらかに統一した方が良いと思います。
 あと、自筆版は「鰻が食べたいと言いながら死んじゃった」ですが赤い鳥版は、「思いながら死んじゃった」です。言いながら死ぬというのは、もの凄い場面です。死ぬ間際の言葉が、鰻が食べたいですから。この部分に関しては、珍しく赤い鳥版の方が、ソフトな表現になっています。

【兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。
「俺と同じように一人ぽっちだ」
兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。】
 
 「赤い井戸」というのは、井戸囲いに常滑焼の土管を使っている井戸のことです。半田の隣町が、焼き物で有名な常滑です。常滑では、昔から焼き物で土管を作っていて、商品にならなかった土管をブロック代わりに再利用しています。この常滑焼の赤い土管を井戸囲いに使うという記述は、「牛をつないだ椿の木」にもでてきます。だから、絵本で木枠の赤い井戸が描かれている本は、間違えているということになります。


 権狐が、盗んだ鰯を兵十の家に投げ込む場面です。自筆版です。

【いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。】

 いきなり、栗を持って行くので無く、その前に「鰯」の場面があるというところが、この物語が良くできているところだと思います。自筆版はこのように続いています。

【次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。
「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」
まだぶつぶつ言っていました。
 権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。】

 赤い鳥版では、「いわし屋の奴にぶん殴られて」という記述になるのですが、自筆版では、「いわし屋にひどい目にあわされた」とあるだけです。兵十は、ほっぺたに「すり傷(かすり傷)」をつけていますが、殴られて受ける傷は、打撲です。「ひどい目」を読者(この場合は、子供たち)に分かり易いように「ぶん殴られた」と書き換える一方で、「かすり傷」は、そのままにするという不徹底なところが気になります。「ひどい目」で十分だと思います。それから、いわし屋に罪が無いことは兵十も承知しているでしょうから、いわし屋の「奴」という表現も不適切といえます。

 権狐が持って行く物について、「栗ばかりでなく、きのこや、薪を」とありますが、赤い鳥版では、「栗ばかりでなく、松茸も二,三本」となって、きのこと薪が、松茸に変わります。知多半島では、松茸は採れないそうですが、山で松茸を見つけて、大事そうに持って行く権狐を思い浮かべると、何とも可愛い感じなので、これはこれで面白いと思います。
 ただ、薪を持ってくるという記述も、素朴で捨てがたいです。償いのメインは、栗でなく薪でも良かったのではないかと思います。

 さて、栗は鰻の償いであるのかという問いについてですが、当然「償いである」となります。赤い鳥版では、鰯を投げ込んだ時に、「ごんは、鰻のつぐないに、まず一つ、良いことをしたと思いました。」と書いてあるからです。まず償いの1つめが鰯なのですから、その後の栗も松茸も、償いの延長線上の行為と考えるのが普通です。

 ところが、自筆版では、「権狐は、何か好い事をしたように思えました。」とあるだけです。償いという直接的な表現が無いこともそうなのですが、「好い事をしたように思える」という記述がなんとも微妙です。権狐は、自分の行為について、自分でも上手く説明ができず、ただ、おこなった後の心地良さだけを味わっているんです。
 確かに、鰻の件で権狐は反省し、一人ぼっちになった兵十に共感していますけど、鰻を盗んだことを償うとは書いてない。兵十に好いことをしてあげようと思っているんです。「よい」っていうのは「好い」「善い」「良い」ってありますけど、正に「好い」です。今度は、兵十に好かれるようなことをしたい、ということです。
 権狐は、初めて尽くす相手を見つけたわけです。もちろん、鰻を盗んだことの罪滅ぼしの気持ちもありますし、同じ一人ぼっち通しという連帯感もあるでしょうが、好いことをしているときの心地よい思いを知ったのだと思います。
 だから、この後に「そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。」となります。悪戯をやめるのは、鰻の件を反省したからで無く、悪戯よりも楽しいことを見つけたからだったのです。
 普通は、「鰻の件を反省」→「悪戯をやめる」→「償いをする」という流れでしょうから、この文を入れるとすれば、穴の中で反省した次に入るのが自然なのですが、南吉にすれば、この文は、此所に入れるべきものだったんです。

 不思議なことが続いた兵十は、このことを加助に話します。加助は、それは神様の仕業だから、神様にお礼を言うがいいと答えます。
 
 自筆版です。          
【権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。】

 赤い鳥版です。
【ごんは、「へえ、こいつはつまらないな。」と思いました。「俺が、栗や松茸を持っていってやるのに、その俺にはお礼を言わないで、神さまにお礼を言うんじゃあ、俺は、引き合わないなあ。」】

 ここの記述については、償いの気持ちで始めたことにもかかわらず、感謝して欲しいと願う権狐の身勝手さということになっています。特に「つまんない」という記述のために、権狐って偉いと思ってたのに案外、見下げた奴だなあ、ってことになってしまいます。
 赤い鳥版では、「償い」を強調してしまったことと、「神様がいなけりゃあ」という表現を憚って「俺は引き合わないなあ」と書き換えたことで、より一層がっかりイメージが強く出てしまいます。
 しかし、権狐にとって、栗は賠償でなくてプレゼントです。秘密のプレゼントなので、贈り主が分からないのは仕方ないとしても、無関係な人と間違えられたら厭です。そこで、神様がいなけりゃあになる訳です。贈り主がずっと分からないままの方が、まだ良いわけです。何もしないのに感謝される神様がうらめしいわけです。決して、損得勘定でものを云っているわけではないということです。
 昭和初期という時代に「神様」について記述することは、デリケートなことだったでしょうから、「引き合わない」と書き換えた三重吉氏の行為も理解できますし、上手いこと書き換えたと思いますけど、やはり損得勘定が出てしまいます。
 ただ、ここでは、三重吉氏の書き換えを批判するよりも、そうせざるを得なかった時代を悲しむべきなのでしょう。


(9) ~田舎の葬式~

 兵十の母親の葬式の場面の分析については、沢田保彦著「南吉の遺した宝物」に詳しく出ています。ここでは、自筆版の本文の表現に注目して、進めていきます。

 自筆版です。 
【十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、
「村に何かあるんだな。」
と思いました。
「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」】

 「くしけずる」【梳る】は「櫛で髪の毛を梳かす」という意味です。
 ここで如何にも南吉らしい表現がでてきます。最後の「そして第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」です。「すぐ分かる」というのは、可愛らしい表現です。自分は村のことなら何でも分かるんだという、権狐の得意そうな顔が目に浮かびます。赤い鳥版では、「第一、お宮にのぼりがたつはずだが。」と普通の表現になっています。

 自筆版です。
【こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。
「ああ、葬式だ。」
権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。
「それでは、誰が死んだんだろう。」
とふと権狐は考えました。
 けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。】

 ここにも出てきました。「こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。」狐にだって分かるくらい当たり前のことという表現です。いかにも南吉的表現ですが、赤い鳥版では、丸ごと削除されています。

 この部分は、珍しく赤い鳥版での書き換えが少ない部分ですが、「腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。」を「よそいきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。」と書き換えています。
 この「常とは好い着物」という表現ですが、単純に考えれば、「普段着より良い」となります。これを三重吉氏は、「よそいきの着物」と書き換えています。最近の葬儀は、葬祭会館などで行い、手伝う事などありませんから、皆さん最初から喪服を着てくることが多いと思いますが、葬式の手伝いに行く時に「よそいき」を着ますでしょうか。
 服装に関する言葉ですが、イメージ的には、「野良着」<「普段着」<「常より好い着物」≦「よそいき」≦「晴れ着」でしょうか。「常より好い」というのは、権狐の目線から出た表現と考えられます。狐にとっては、晴れ着もよそいきも全部まとめて常より好いと思っているのでしょうから、無理に「よそいき」などと書き換えなくても「いつもより好い服を着た」で十分だったと思います。
 それから、三重吉氏は「人たち」を「女たち」に直してますが、葬式の準備で火を焚くのは、知多半島では、男の仕事だそうです。

 自筆版です。
【お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。】

 権狐は、一度帰ってから、出直して来ているようです。葬儀は午前中に行って、出棺はお昼過ぎという葬式のスケジュールや、葬列のルートがちゃんと分かっているみたいです。お城の屋根瓦といい、彼岸花といい素敵な情景描写です。「さっきから、鐘が鳴っていました。」というところも秀逸です。場面全体がのんびりとした時間の流れに覆われています。
 赤い鳥版では、「と、村の方から、カーン、カーンと鐘が鳴ってきました。」と書き換えています。権狐が隠れるのを待っていたかのように葬列が出発したという描写になります。鐘の音をきっかけにして場面に緊張感が出てきます。「さっきから、~鳴ってました」を「と、~鳴ってきました。」に変えただけのことですが、情景描写が南吉っぽさから、一気に三重吉っぽさに変わった印象を受けます。

 自筆版です。
【やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。
「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」
権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。】

 ここにも、南吉らしい表現があります。「やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。」つまり「白い着物が見えた」とあります。赤い鳥版では「白い着物を着た者たちが見えた」です。見えたのは、「着物」か「人」かということです。
 ちなみに、知多半島の風習では、葬列で白装束になるのは、喪主や近親者で、それ以外の者は、黒い服で歩くそうですから、絵本の挿絵で、全員が白装束なのは、間違いなのだそうです。

 それから、岩滑の葬式では、喪主が「白い裃をつけて位牌を捧げる」のは、目上の葬式の場合で、自分の家内や子どもの葬式では、裃は着けないとありました。そこで、裃を着けていることから、兵十にとって目上の家族、つまり母親(もしくは父親)の葬式となるそうで、権狐の「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」の台詞につながるそうです。
 権狐は、葬式の支度を見ているときに「誰が死んだのだろう」と考えます。これは、権狐が、兵十が母親との二人暮らしであることを知らなかったということを表しています。権狐が、兵十の母親の葬式だということが分かったのは、葬列での兵十が裃を着けていたのを見たからです。兵十の顔が萎れていたからではありません。

 権狐は、それほどまでに岩滑のしきたりに精通している狐である、ということになります。言い方を変えれば、南吉は、岩滑のしきたりについては、説明するまでもなく、理解されるものと考えていたということです。






 「赤い鳥」に掲載された「ごんぎつね」は、そのストーリーの巧みさにより評判を呼びます。南吉は、改作については何も語らず、赤い鳥版のごんぎつねを自らの作品として受け入れたといわれています。17才の代用教員、新美南吉にとっては、世間に発表できたこと、それで充分だったのでしょう。
 ところが、「ごんぎつね」が「赤い鳥」に掲載された翌年、南吉が尊敬する北原白秋が鈴木三重吉と絶交するに至り「赤い鳥」と絶縁、南吉も「赤い鳥」への投稿をやめてしまいます。これは、南吉が北原白秋に追従したためと云われてきましたが、僕には「ごんぎつね」掲載にあたっての三重吉に対する不信感が、根底にあったように思えてならないのです。

(資料)  「権狐」    新美南吉 著   

 茂助というお爺さんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助爺」と私たちは呼んでいました。茂助爺は、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助爺と遊びました。
 私はもう茂助爺の顔を覚えていません。ただ、茂助爺が夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助爺は、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助爺からきいた話なんです。

(1)
 昔、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来と住んでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。
 権狐は、一人ぼっちの小さな狐で、いささぎの一ぱい茂った所に、洞を作って、その中に住んでいました。そして、夜でも昼でも、洞を出ていたずらばかりしました。畑へ行って、芋を掘ったり、菜種がらに火をつけたり、百姓屋の背戸に吊してある唐辛子をとって来たりしました。

 それはある秋のことでした。二三日雨が降りつづいて、権狐は、外へ出たくてたまらないのをがまんして、洞穴の中にかがんでいました。雨があがると、権狐はすぐ洞を出ました。空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がけたたましく、響いていました。
 権狐は、背戸川の堤に来ました。ちがやの穂には、まだ雨のしずくがついて、光っていました。背戸川はいつも水の少ない川ですが二三日の雨で、水がどっと増していました。黄くにごった水が、いつもは水につかっていない所のすすきや、萩の木を横に倒しながら、どんどん川下へ流れて行きました。権狐も、川下へ、ぱちゃぱちゃと、ぬかるみを歩いて行きました。
 
 ふと見ると、川の中に人がいて何かやっています。権狐は、見つからないように、そーっと草の深い方へ歩いて行って、そこからそちらを見ました。
「兵十だな。」
と権狐は思いました。兵十は、ぬれた黒い着物を着て、腰から下を川水にひたしながら、川の中で、はりきりと言う、魚をとる網をゆすぶっていました。鉢巻きをした顔の横に、円い萩の葉が一枚、大きな黒子みたいにはりついていました。

 しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番後ろの、袋のようになったところを水の中から持ち上げました。その中には、芝の根や、草の葉や、木片などが、もじゃもじゃしていましたが、ところどころ、白いものが見えました。それは、太いうなぎの腹や、大きなきすの腹でした。
 兵十は、しばらくすると、兵十は、はりきり網の一番うしろの魚籠の中へ、ごみも一緒に、そのうなぎやきすを入れました。そしてまた、袋の口をしばって、水の中に入れました。兵十は魚籠を持って川から上がりました。そして、魚籠をそこに置くと、着物の端から、ポトポトとしずくを落としながら、川上の方へ何か見に行きました。

 兵十がいなくなると、権狐はぴょいと草の中からとび出して行きました。魚籠にはふたがなかったので、中に何があるか、わけなく見えました。権狐は、ふといたずら心が出て、魚籠の魚を拾い出して、みんなはりきり網より下の川の中へほりこみました。どの魚も、「とぼん!」と音を立てながら、にごった水の中に見えなくなりました。
 一番おしまいに、あの太いうなぎをつかもうとしましたが、このうなぎはぬるぬるして、ちっとも権狐の手にはつかまりません。権狐は一生懸命になってうなぎをつかもうとしました。とうとう、権狐は、頭を魚籠の中につっ込んで、うなぎの頭をくわえました。うなぎは、「キユッ」と言って、権狐の首にまきつきました。その時兵十の声が、
「このぬすっと狐めが!」
と、すぐそばでどなりました。権狐はとびあがりました。うなぎをすてて逃げようとしました。けれど、うなぎは、権狐の首にまきついていてはなれません。権狐はそのまま、横っとびにとんで、自分の洞穴の方へ逃げました。
 洞穴近くの、はんの木の下でふり返って見ましたが、兵十は追って来ませんでした。
 権狐は、ほっとしてうなぎを首から離して、洞の入口の、いささぎの葉の上にのせて置いて洞の中にはいりました。うなぎのつるつるした腹は、秋のぬくたい日光にさらされて、白く光っていました。
 
(2)
 十日程たって、権狐が、弥助というお百姓の家の背戸を通りかかると、そこのいちじくの木のかげで、弥助の妻が、おはぐろで歯を黒く染めていました。鍛冶屋の新兵衛の家の背戸を通ると、新兵衛の妻が、髪をくしけずっていました。権狐は、
「村に何かあるんだな。」
と思いました。
「いったいなんだろう。秋祭りだろうか。でも秋祭りなら、太鼓や笛の音が、しそうなものだ。そして 第一、お宮に幟が立つからすぐ分かる。」

 こんな事を考えながらやって来ると、いつの間にか、表に赤い井戸のある、兵十の家の前に来ました。兵十の小さな、こわれかけの家の中に、大勢の人がはいっていました。腰に手ぬぐいをさげて、常とは好い着物を着た人たちが、表の、かまどで火をくべていました。大きな、はそれの中では、何かぐつぐつ煮えていました。
「ああ、葬式だ。」
権狐はそう思いました。こんな事は葬式の時だけでしたから、権狐にすぐわかりました。
「それでは、誰が死んだんだろう。」
とふと権狐は考えました。
 けれど、いつまでもそんな所にいて、見つかっては大変ですから、権狐は、兵十の家の前をこっそり去って行きました。

 お正午がすぎると、権狐は、お墓へ行って六地蔵さんのかげにかくれていました。いい日和で、お城の屋根瓦が光っていました。お墓には、彼岸花が、赤い錦のように咲いていました。さっきから、村の方で、「カーン、カーン」と鐘が鳴っていました。葬式の出る合図でした。
 やがて、墓地の中へ、やって来る葬列の白い着物が、ちらちら見え始めました。鐘の音はやんでしまいました。話し声が近くなりました。葬列は墓地の中へ入って来ました。人々が通ったあと、彼岸花は折れていました。権狐はのびあがって見ました。兵十が、白い裃をつけて、位牌を捧げていました。いつものさつま芋みたいに元気のいい顔が、何だかしおれていました。
「それでは、死んだのは、兵十のおっ母だ。」
権狐はそう思いながら、六地蔵さんのかげへ、頭をひっこめました。
 
 その夜、権狐は、洞穴の中で考えていました。
「兵十のおっ母は、床にふせっていて、うなぎが食べたいと言ったに違いない。それで兵十は、はりきり網を持ち出して、うなぎをとらまえた。ところが自分がいたずらして、うなぎをとって来てしまった。だから兵十は、おっ母にうなぎを食べさせることができなかった。それで、おっ母は、死んじゃったに違いない。うなぎが食べたい、うなぎが食べたいと言いながら、死んじゃったに違いない。あんないたずらをしなけりゃよかったなー。」
 こおろぎが、ころろ、ころろと、洞穴の入口でときどき鳴きました。

(3)
 兵十は、赤い井戸の所で、麦をといでいました。兵十は今まで、おっ母と二人きりで、貧しい生活をしていたので、おっ母が死んでしまうともう一人ぽっちでした。
「俺と同じように一人ぽっちだ」
兵十が麦をといでいるのを、こっちの納屋の後から見ていた権狐はそう思いました。権狐は、納屋のかげから、あちらの方へ行こうとすると、どこかで、いわしを売る声がしました。
「いわしのだらやす。いわしだ。」
権狐は、元気のいい声のする方へ走って行きました。芋畑の中を。
弥助のおかみさんが、背戸口から、
「いわしを、くれ。」
と言いました。
 いわし売りは、いわしのはいった車を、道の横に置いて、ぴかぴか光るいわしを両手でつかんで、弥助の家の中へ持って行きました。そのひまに、権狐は、車の中から、五六匹のいわしをかき出して、また、もと来た方へかけだしました。そして、兵十の家の背戸口から、家の中へ投げこんで、洞穴へ一目散に走りました。はんの木の所で立ち止まって、ふりかえって見ると、兵十がまだ、井戸の所で麦をといでるのが小さく見えました。権狐は、何か好い事をしたように思えました。

 次の日には、権狐は山へ行って、栗の実を拾って来ました。それを持って、兵十の家へ行きました。背戸口からうかがって見ると、ちょうどお正午だったので兵十は、お正午飯のところでした。兵十は茶碗をもったまま、ぼんやりと考えていました。変な事には、兵十のほっぺたに、すり傷がついていました。どうしたんだろうと、権狐が思っていると、兵十が独言を言いました。
「いくらかんがえても分からない。いったい誰がいわしなんかを、俺の家へほりこんで行ったんだろう。おかげで俺は、盗人と思われて、あのいわし屋に、ひどい目に合わされた。」
まだぶつぶつ言っていました。
 権狐は、これはしまったと思いました。かわいそうに、あんなほっぺたの傷までつけられたんだな。権狐は、そっと納屋の方へまわって、納屋の入口に、持って来た栗の実を置いて、洞に帰りました。次の日も次の日もずっと権狐は栗の実を拾って来ては、兵十が知らんでるひまに、兵十の家に置いて来ました。栗ばかりではなく、きのこや、薪を持って行ってやる事もありました。そして権狐は、もういたずらをしなくなりました。
(4)
 月のいい夜に権狐は、遊びに出ました。中山様のお城の下を通って少し行くと細い往来の向こうから誰か来るようでした。話し声が聞こえました。「チンチロリン、チンチロリン」松虫がどこかその辺で鳴いていました。
 権狐は、道の片側によって、じっとしていました。話し声はだんだん近くなりました。それは、兵十と、加助という百姓の二人でした。
「なあ加助。」
と兵十が言いました。
「ん」
「俺あ、とても不思議なことがあるんだ」
「何が?」
「おっ母が死んでから、誰だか知らんが、俺に栗や、きのこや、何かをくれるんだ」
「ふん、誰がくれるんだ?」
「いや、それがわからんだ、知らんでるうちに、置いていくんだ。」
権狐は、二人のあとをついて行きました。
「ほんとかい?」
加助が、いぶかしそうに言いました。
「ほんとだとも、うそと思うなら、あした見に来い、その栗を見せてやるから」
「変だな。」
それなり二人は黙って歩いて行きました。
 ひょいと、加助が後ろを見ました。権狐はびくっとして、道ばたに小さくなりました。加助は、何も知らないで、また前を向いて行きました。吉兵衛と言う百姓の家まで来ると、二人はそこへはいって行きました。「モク、モクモク、モクモク」と木魚の音がしていました。窓の障子にあかりがさしていました。そして大きな坊主頭が、うつって動いていました。権狐は、
「お念仏があるんだな」
と思いました。権狐は井戸のそばにしゃがんでいました。しばらくすると、また、三人程、人がつれだって吉兵衛の家にはいって行きました。お経を読む声が聞こえて来ました。

 権狐は、お念仏がすむまで、井戸のそばにしゃがんでいました。お念仏がすむと、また、兵十と加助は一緒になって、帰って行きました。権狐は、二人の話を聞こうと思って、ついて行きました。兵十の影法師をふんで行きました。
 中山様のお城の前まで来た時、加助がゆっくり言いだしました。
「きっと、そりゃあ、神様のしわざだ。」
「えっ?」
兵十はびっくりして、加助の顔を見ました。
「俺は、あれからずっと考えたが、どう考えても、それゃ、人間じゃねえ、神様だ。神様が、お前が一人になったのを気の毒に思って、栗や、何かをめぐんで下さるんだ。」
と加助が言いました。
「そうかなあ。」
「そうだとも。だから、神様に毎日お礼言ったが好い。」
「うん」
権狐は、つまんないと思いました。自分が、栗やきのこを持って行ってやるのに、自分にはお礼言わないで、神様にお礼を言うなんて。いっそ神様がなけりゃいいのに。権狐は、神様がうらめしくなりました。

(5)
 その日も権狐は、栗の実を拾つて、兵十の家へ持つて行きました。兵十は、納屋で縄をなっていました。それで権狐は背戸へまわつて、背戸口から中へはいりました。

 兵十はふいと顔をあげた時、何だか狐が家の中へ入るのをみとめました。兵十は、あの時の事を思い出しました。うなぎを権狐にとられた事を。きつと今日も、あの権狐がいたずらをしに来たに相違ない。
「ようし!」
 兵十は、立ちあがつて、ちょうど納屋にかけてあった火縄銃をとって、火薬をつめました。そして、足音をしのばせて行って、今、背戸口から出て来ようとする権狐を「ドン!」とうってしまいました。権狐は、ばったり倒れました。
 兵十はかけよって来ました。ところが兵十は、背戸口に、栗の実が、いつものように、かためて置いてあるのに眼をとめました。
「おや。」
兵十は権狐に眼を落としました。
「権、お前だったのか……。いつも栗をくれたのは。」
権狐は、ぐったりなったまま、うれしくなりました。
 兵十は、火縄銃をばったり落としました。まだ青い煙が、銃口から細く出ていました。

2017年11月18日土曜日

四つ溝柿 ~高級フルーツとカラスの餌の話~

「四つ溝柿」は、静岡県東部から神奈川県西部にかけて自生していた渋柿である。地域の固有種と云っても、柿の品種は、およそ1000種類もあるそうだから、特に自慢できる話では無い。


 四つ溝柿の名前の由来は、実の四方に溝のような窪みがあるところからきている。特徴は、細長くて小ぶりで種が無いこと、渋抜きをした後も実がしっかりしていて歯ごたえが良いことである。
 このあたりは、ちょっとした空き地や庭先に柿の木が植えてあって、ちょうど今の時期、一本の木に何百と実がなっている。特に今年は生り年のようで、鈴なりとはこういう状態のことを云うのだろう。
 僕の実家にも柿の木があって、世話など全然していないのに、毎年バケツ何杯分もの実を付けていた。甘柿だったら、ちゃんと世話をしなければ、美味しい柿には成らないだろうが、四つ溝柿は渋柿だから、渋抜きをすれば必ず甘くなるし、商品にしないのなら実を大きく育てる必要も無いから、これで十分である。

 渋抜きの方法は主に3つ。1つは、炭酸ガスを使う方法で、設備が必要だが一度に大量の渋抜きができるので、農家が出荷するときに使っている。もう1つは、密閉した容器に入れてお風呂の残り湯に漬けておく方法。そして、アルコールを使う方法である。お風呂の残り湯を使った方法は、温度管理が意外と難しいので、我が家ではアルコールを使って渋抜きをしていた。
 一般的には、焼酎を使うのだろうが、最近の焼酎は高アルコールの物が手に入り難いので、ウイスキーを使って抜いていた。一番安いトリスの一番小さい小瓶を買ってきて、ウイスキーをヘタのところにチョンって着けて、二重にしたビニール袋に入れて窓際に置いておくと、1週間ほどで食べ頃になる。食べ頃かどうかは、試食をして決めるのだが、ちゃんと抜けてるかどうか分からないので、ちょっとしたスリルである。
 一度、残り物のブランデーを使って、渋抜きをしたことがあって、この時は、袋を開けた途端、フワーッて良い香りが漂ってきて、高級感があった。

 渋抜きは、たいした手間では無いが、それでも、面倒だと思っている家などは、実がなっていても、ほったらかしにしていることも多くって、実が真っ赤に熟すと鳥がやってきていた。渋柿だから盗む奴もいなくって、まあ、カラスの餌を育てているようなものである。

 そんな柿の木であったが、家を改築するときに切ってしまった。

 山の手の方に行くと柿園があって、何軒かの農家が四つ溝柿を栽培している。農家の庭先には、無人スタンドがあって、小ぶりな物なら3個で100円とか、ちょっと良いやつならば4個で200円とかで売っていたから、よく買いに行った。ところが、金を払わずに持ってく奴とか、金を盗んでいく奴などが出てきた。やがて、四つ溝柿も少しずつ知られるようになり、県外の市場に出荷したり、農家がネットで販売するようになったこともあって、無人スタンドはどんどん無くなっていった。
 
 今では、スーパーマーケットの果物売り場で、地元特産品とか云って売られている。今日なんて4個で498円なんて値札がついていた。1個100円以上だ。普通の甘柿より高いではないか。もう買えない。
 で、そのスーパーの前には、空き地があって、隅の方に柿の木が植えてある。鈴なりに実がなっているが、誰も収穫する気配がないから、いずれカラスの餌になるであろう。まあ、柿の実はただ同然でも、収穫して、渋抜きして、市場に出して、仕入れて、パートのおばさんが店頭に並べる手間を考えれば、0円が100円になるのも致し方ないことなのかもしれない。

 首都圏にも出荷しているとのことだから、「紀ノ国屋」とか「成城石井」なんてところにも並べてもらっているのだろうか。「千疋屋」でパフェになって2000円とか云われたら、もう笑うしかない。
 でも、美味しいことは事実である。渋抜きをするとかなりの高糖度になって、それでいて、これだけ実がしっかりしている品種は珍しいみたいだし。
 
 身近すぎて見えない価値・・・まあ、よくある話であるが、なにぶんカラスが食べてるところを毎年見ていれば、これも致し方ないことかと。

 最後に一言。カラスが食べているのは、庭先の四つ溝柿であって、商品化されているのは、ちゃんとした果実園で栽培されているものですから、誤解の無いようw

2017年11月13日月曜日

エーリッヒ・ケストナー作「ふたりのロッテ」と「追憶のヒロイン」Wink

 「追憶のヒロイン」は、アニメ「わたしとわたし~ふたりのロッテ~」のエンディングテーマ(ED)である。OPとEDで両A面という扱いだったが、歌番組で2曲披露するわけにはいかないから、どちらかを選択しなければならない。で、どうやらこちらが選ばれたようだが、MVがOPしか作られていないところを見ると、この決定までには紆余曲折があったのかもしれない。
 ラテンのリズムは、ドイツ・オーストリアを舞台としたアニメ作品とはかけ離れているが、まあ、EDというのは、そういうものである。

 この楽曲はMVが無いものの、ライブ動画が多く撮られている。現在、最も視聴回数の多いのは、こちら。


 コンサートライブからのテイクのようである。で、ライブテイクは、もう1つある。


 実は、最初の動画はCD音源である。ライブ映像にCD音源を被せて、さらにライブ動画の方が短いものだから、別の映像を挟み込んで合わせたという力作だ。MVが無いのなら自分たちで作ってしまう、Winkファン恐るべしである。
 では、ライブ動画がそれほどまでにデキが悪いのかというと、そんなことは全然無くって、会場のかけ声や間奏のギターソロなんてイイ感じだし、何より、ちゃんと歌えている。
 そりゃあ、「あやや」のようにライブの方がCDより歌が上手いなんてことは無いが、彼女たちは、ちゃんと歌っているのである。それが、Winkの最大の魅力であって、僕だって、アイドルならば何でもイイわけでは無いのだ。



 アニメの原作「ふたりのロッテ」は、ドイツの児童文学作家エーリッヒ・ケストナーが1949年に発表した小説である。戦前、ケストナーは、反ナチ的な態度をとっていたので、発禁や焚書などの弾圧を受けていたが、投獄されることはなかったらしい。彼は国民的人気作家だったから、国民感情を考えると、当局も手荒なマネはできなかったのだろう。「ふたりのロッテ」は、ケストナーがナチスの弾圧から逃れるために偽名を使って書き上げた映画の脚本だった。地の文が現在形になっているのはそのためだ。映画の制作は当局に発覚して中止になったが、ナチスの迫害を受けながら、そして祖国が連合軍の無差別爆撃で焦土と化していく中で、双子の女の子が主人公で離婚がテーマの映画を作ろうなんて考えていたことに驚かされる。
 まあ、とにかく有名な話だから、読んだ人も多いはずだし、どんな小さな街の図書館にだって置いてあるだろうし、ブックオフへ行けば100円で手に入る。今さら、ネタバレのことなど気にする必要もないだろう。
             
 児童文学だから、本の裏表紙には対象年齢が書いてあって、小学校4年生以上だそうだ。これは、ロッテとルイーゼの設定年齢がもうすぐ10歳というところからきているのだと思う。主人公が自分と同年齢ならば感情移入がしやすいと云う教育的配慮だ。でも、感情移入という観点で云うならば、もう1つの対象年齢は25歳以上である。もちろん、パルフィー氏とケルナーへの感情移入を考慮してのことだ。
「ふたりのロッテ」を子どもの時に読まなかったことは不幸だが、子どもの時に読んだだけで終わってしまうのも、勿体ないことなのである。


 物語のタイトルは「ルイーゼとロッテ」でも良かったはずなのに、何故、「ふたりのロッテ」なのか。それは、物語の重要なアイテムであるツーショット写真がロッテの髪型だったからに他ならない。でも理由はそれだけでは無いと思う。物語の主人公は、明らかに「ロッテ」と云えるからだ。
 ルイーゼとロッテ、貧乏くじを引いたのはロッテである。ミュンヘンでは、シングルマザーのケルナーと共に「小さな主婦」として家庭を支えなければならなかったし、ウイーンでは、崩壊状態にあった家庭を再建し、父親の婚約者ゲルラッハ嬢と壮絶な女のバトルを繰り広げたあげく、病んでしまうからだ。可哀想過ぎる。これで脇役扱いだったら、「やってらんねえ」ってなるだろう。

 夏休みの林間学校で出会ったルイーゼとロッテは、お互いが生き別れた双子であることを知り、入れ替わって帰宅することを思い立つ。書評では「分かれた両親を仲直りさせるため」となっているが、これは間違っている。そんなことは、何処にも書かれてないし、ケストナー自身も、彼女たちもそんなことが出来るとは思ってないと書いているからだ。彼女たちが入れ替わったのは、もう片方の愛情を手に入れるためであり、子どもらしい冒険への憧れからに過ぎない。

 彼女たちの父親、パルフィー氏は作曲家であり、ウイーンの国立歌劇場の常任指揮者という設定だ。ということは、率いているのはウイーン・フィルってことか。凄すぎる。いくら小説でもやり過ぎだろうw
 若くして結婚したケルナー夫人は、家庭を顧みない夫と、双子の育児に疲れ果てていたが、夫の浮気の噂を耳にして離婚話を突きつけてしまう。若き音楽家パルフィー氏は、芸術家としてやっていけるかどうか、底無しの不安にさいなまれていたから一人の時間が欲しかった。まあ、離婚の理由としては上等だろう。で、こんな記述がある。感動の場面だから、引用させていただこう。
 ”新曲をひっさげたパルフィー氏がミュンヘンでコンサートを開くたび、ケルナーは、一番安いチケットを買う。そして、一番後ろの席にうつむきかげんに座り、分かれた元の夫の音楽から、この人が幸せになったわけでは無いことを聴き取る。成功しているのに。一人になれたのに。”
 ウイーン・フィルの演奏から、元の夫の心の内を聴き取るなんて、格好良すぎだ。YouTube動画を見比べて、こっちの方が「さっちん」が可愛い、なんてやってる自分が恥ずかしくなってくる。

 ルイーゼとロッテは、双子であるが、性格は正反対という設定になっている。双子は同じ遺伝子情報を持っているから性格も似るはずなのだが、育ってきた環境があまりにも違うからだ。
 だから環境を入れ替えたとき、補完が始まる。ミュンヘンのルイーゼは細やかな心遣いを身につけるし、ウイーンのロッテは子どもらしい明るさと行動力を獲得する。
 そして、大人たちも変わり始める。ロッテの小さな主婦としての健気な振る舞いによって、パルフィー氏は家庭の温もりを求めるようになるし、ルイーゼの屈託の無い明るさは、生活に追われていたケルナーに心のゆとりをもたらす。ガルミッシュへの1泊旅行。アイプ湖のホテルでのささやかな贅沢。

 パルフィー氏は、ロッテの目に溜めた涙から、手がけていた子ども向けのオペラ、「子どもの歌」をハ短調に転調するというインスピレーションを得るのだが、ロッテの想いは彼には届かない。
 では、パルフィー氏が酷い父親かというと、そんなことは無い。ロッテが熱にうかされているとき、氏は、一晩中枕元で見守っていた。しかし、その小さな頬を撫でた時、ロッテは無意識のうちに父の手を拒絶する。ロッテは父の手を知らずに育ってきたからだ。
”父親はそっと立ち上がり、人形を取り上げて、明かりを消すと、またベッドのそばに腰を下ろす。そうやって、暗がりの中、父親は子どもの代わりに、人形を撫でる。人形なら、父親の手にもビクッとしない。”
 父親とは憐れな生き物である。

 ロッテの宿敵、ゲルラッハ嬢は、ウイーンでホテルやレストランを経営する実業家の父を持ち、指揮者夫人というステータスを手に入れることを目論む心冷たい女性と描かれている。でも、パルフィー氏はバツイチの独身男性だから、彼女は悪いことをしてるわけではないし、相手が母親の愛情を知らずに育ったルイーゼだったら「勝手に再婚すれば」みたいな感じで、めでたく結婚できたはずだ。運が悪かったとしか云いようが無い。
 アニメでは、彼女のパルフィー氏を愛する心はホンモノだと描かれているし、悲しみにくれながらも潔く身を引く姿は格好良くもある。さらにアニメでは、ケルナーの職場の上司ベルナウ編集長がケルナーに密かな恋心を持っていることになっていて、パルフィー氏とケルナーが、そう簡単には、よりを戻せない状況にあるから、人物設定に関してはアニメの方がレベルが高いと云える。

 二人の入れ替わり生活は、偶然、雑誌社に送られてきた一枚の投稿写真、「ふたりのロッテ」でケルナーの知るところとなる。母親にかまをかけられて、ルイーゼが皿を落としてしまうところは、物語で最も有名な場面だろう。
 この先は、ひたすらベタな展開の連続だが、読者が望むところなので致し方ない。

 物語の最後、パルフィー氏のオペラは、ハ短調から、さらに変ホ長調に転調されて完成する。ベートーヴェンが生涯愛した変ホ長調で。


 アニメファンは、エヴァンゲリオンのアスカとレイのように、ルイーゼ派とロッテ派に分かれているそうだ。そういえば、Winkファンも「さっちん」派と「翔子」派に分かれていて、彼女にするなら右、結婚するなら左とか云われていたらしい。その言葉を借りれば、彼女にするならルイーゼ、結婚するならロッテとな・・・誤解を招くといけないのでやめておこう。

2017年11月11日土曜日

「イマージュな関係」Winkとアニソン考

 アニソンとは、云うまでも無くアニメーション番組の主題歌・挿入歌のことである。今では、音楽ジャンルの1つとして、確固たる地位を築いているが、昔からそうだったわけではない。アニソンの画期は、マクロスと飯島真理であると僕は考えている。マクロス以前とマクロス以後では、アニソンの概念が大きく変化したからだ。
 ならば、マクロス以前のアニソンが音楽的にツマラナイものだったのかと云うと、それは違う。主題歌は番組の顔だから、故冨田勲先生や故宮川泰氏のような一流の音楽家が手がけることも多かったし、時代を超えて存在する名曲もたくさんある。
 では、何が違うのか。それは、楽曲の独立性である。それまで作品と一体化していた主題歌が、1つの楽曲として存在する、あるいは、存在しても良いのだという認識が生まれたのが、マクロス以降のアニソンなのである。このことによって、いわゆるアーティストと呼ばれる者たちが楽曲を提供し、歌うようになっていった。若きシンガーソングライター飯島真理は、アニソン歌手というレッテルに苦しんでいたが、彼女の功績はあまりにも大きい。僕が子どもの頃は、アニメの主題歌がFM放送で流されたり、ちゃんとした歌番組で歌われるなんてことは、有り得なかったのである。

 アニソンは、アニメ作品との独立性・距離感によって、3つに分類される。Ⅰは、主人公の名や必殺技を連呼するタイプのもので「マジンガーZ」が好例である。Ⅱは、アニメのために作られたのだが楽曲にあまり作品感が無いもので「残酷な天使のテーゼ」など。Ⅲは、独立して存在していた楽曲を主題歌として採用したもので、極端な例だとジブリ映画「風立ちぬ」の「ひこうき雲」であろうか。
  また、エンディングテーマは、オープニングテーマとの対比で制作されるために、作品から一歩離れる傾向があり、バラード系が多いのが特徴だ。OP「宇宙戦艦ヤマト」はバリバリのカテゴリーⅠのアニソンだが、EDの「真っ赤なスカーフ」はカテゴリーⅡの、それも歌番組で披露しても全く違和感の無さそうなムード歌謡だった。
 
 今回、紹介させていただく「イマージュな関係」は、アニメ「わたしとわたし~二人のロッテ~」のオープニングテーマで、カテゴリーⅡに相当する。
 この楽曲は、Winkの13枚目のシングルとして、1991年12月にリリースされた。オリコン順位5位は、長く緩い下り坂にあったWinkにとっては、こんなところかなって感じだが、売り上げ14万枚弱は、この時期のWinkにしても健闘とは言い難い。アニメの主題歌というところが、裏目に出たのだろうか。
 このCDは、OP「イマージュな関係」とED「追憶のヒロイン」の両A面という扱いになっているが、タイトル名は、EDの方が先にあるし、歌番組でもこちらの方を歌っていたから、「追憶のヒロイン」が実質的なA面だったのだろう。しかし、相田翔子さんスタートの歌割りになっているのはOP「イマージュな関係」の方で、MVが作られたのもこちらである。


 歌詞の中に「もう一人の私」など、物語の内容を暗示するフレーズがあるものの、何も知らなければ、この楽曲がアニメの主題歌であると思うことはないだろう。もちろん、コード進行とか、キャッチーなサビとか、どことなく漂うアニソンっぽさは否定できないが、Winkが歌うことで、それらが格好良さへと昇華しているように思う。Winkがアニソンを歌ったと云うより、アニソンをWinkがカバーしたと云うべきであろう。
 楽曲の世界観は、ロッテとルイーザと云うよりも、彼女たちの両親、つまり大人の恋愛を描いているかのようだ。この曲をセルフカバーしての再結成なんてのも、アリに思えてくる。
 
 アニメ「わたしとわたし」について、僕は何も知らないが、素晴らしいファンサイトのおかげで、大まかな内容を把握することができる。有り難いファンというものは、どの世界にも存在するようだ。


 「わたしとわたし」は、1991年11月から1992年9月まで日本テレビ系で、土曜日の18:30から放送されていたようだ。放映期間は、ほぼ1年であるが、全29話と中途半端なのは、放送枠をプロ野球中継と共用していたからで、夏から秋にかけて、物語がクライマックスを迎えているのに、ジャイアンツ戦中継のために、5週連続で放送中止になったりしたらしい。

 原作は、映画の脚本として書かれたから、文庫本にすれば100ページほどの小説に過ぎない。だから、29話のアニメに構成するにあたって、オリジナルのエピソードでふくらめたり、人間関係をさらに複雑にしているのだが、それらは、原作の雰囲気を壊すこと無く、短編小説を見事に長編アニメ作品へと生まれ変わらせているのである。

 4分間の歌に合わせて、物語のあらすじをまとめてくれたPVである。大切なところは、だいたい出ているから、29話全部を見る時間の無い方にはお勧めである。


 児童文学アニメの名作とされ、再放送のリクエストも多いようだが、再放送やDVD化には、新たな著作権契約が必要らしい。著作権料を払うだけの売り上げが見込めないのなら、単なる金銭の問題であるが、親族が権利を相続している場合は、わずかな改作も認めないというケースも多い。ケストナーは1975年に亡くなっているから、著作権フリーとなる没後50年まであと8年だが、著作権法が改正されれば、もはや絶望的である。

 原作の考察とエンディング・テーマについては、次回ということで。

2017年11月3日金曜日

「Special To Me」Wink ~代々木体育館ライブとバレーボールの話~

 視聴したときから、不思議に思ってたんです。アルバム収録曲でシングルカットされたわけでもないのに、どこかで聴いたような気がして。


リンクでは不都合な場合はこちらを。


 Winkの「スペシャル・トゥ・ミー」は、「ボビー・コールドウェル」の「Special To Me」のカバーとのことですが、僕の記憶に残っているのは、あくまでも日本語の女声の歌です。
 で、聞き覚えがあった理由が分かりました。これって、1989年のワールドカップバレーボールの応援ソングだったんですね。バレーボールの中継が始まる時に流れていたのを聴いてたみたいです。Winkが歌ってたことなんて、完全に忘れてましたけど。

 リンクさせていただいた動画は、ライブビデオの映像にCD音源を組み合わせた作品です。映像が綺麗で、キョロキョロと動き回る鈴木早智子さんの瞳が劇的に可愛いです。前奏の部分で若干のズレがある以外は、違和感なく口パクしています。こんなに巧く被せられるものなんですね。
 貼り付け動画の方は、ポリスターからアップされているライブ動画です。低い音域が歌い難いみたいで、大分苦労していますけど、まあ、それなりに歌えてます。

 と、云うわけで、僕にとっての「スペシャル・トゥ・ミー」は、「ボビー・コールドウェル」でなくってWinkです。

 僕の住んでいるとこは、近くにVプレミアリーグのチームの本拠地があって、バレーボールには馴染みのある街です。近所のスーパーマーケットで2mの大男が買い物をしていれば目立ちますしね。

 テレビのバレー中継はよく見ていますし、生の試合を見に行ったことも2回ほどあります。普段テレビで見ている全日本レベルの選手たちの生試合は、迫力があります。地方の体育館ですからコートと観客席との距離がめちゃめちゃ近くって、サーブやアタック練習の時は、若手選手が観客席の前に立っているんですけど、それでもボールが飛び込んできます。ワンバウンドとは云え、年寄りに直撃すれば死ぬと思います。

 「清水」のアタックは、ホントに3枚ブロックをぶち抜いてきますし、「福澤」の滞空時間の長いスパイクも格好いいです。空中で止まるって、こう云うことかと。だから相手のブロックが我慢できずに降りちゃって、そこを打つから、全部ブロックアウトになるんですよ。まあ、第3セットくらいになれば、相手も修正してきますけど。それから、「ゴッツ石島」は正にムードメーカーでしたね。たいしたアタックもレシーブもしていないんですけど、彼がやると全てファインプレーに見えてくるから不思議です。
 でも、応援に使う棒風船はどうにかして欲しいですね。すごい音なんで、あれを叩かれると隣の人とも話が出来ません。その点、堺ブレイザーズの応援団は、ハリセンですから好感が持てます。ブレイザーズの「なおき」応援団長は、プロの芸人もやっていて、この世界では超有名な応援団長さんです。チームを盛り上げ、観客席を楽しませ、しっかり自分も目立つという、応援団長のプロです。ブレイザーズの応援団は本当に楽しそうです。


 なおき団長は、ブレイザーズの攻撃パターンを熟知しているので、レシーブがセッターに入った瞬間には、選手名が書かれたプラカードを持っていて、得点が入ったときに備えています。でも、プラカードを相手チームのブロッカーに見られたらマズいと思います。なおき団長の真骨頂はアウェイで発揮されます。ホームチームの大声援を巧みにかわしながらの応援は芸の域にあります。

 でも、肝心の試合は、外国人選手同士の打ち合いです。外人の成績=チームの成績ですから、こんなことでは全日本男子が再び世界に通用する日は、まだ先のようです。

 で、1989年のワールドカップバレーボールですけど、男女ともキューバが強かった時代のようです。女子だと「ルイス」(懐かしい)、男子では「デスパイネ」とか、アメリカの「ストブルトリック」(超懐かしい)の名前がありました。全日本男子監督の「中垣内」氏が世界デビューした大会で、大会のベスト・セッターが「眞鍋政義」氏と「中田久美」氏だったそうですから、ちょうど、現在、監督を務めている方々が、現役バリバリだった頃になります。

 応援ソング「Special To Me」は、この年の暮れに発売された3枚目のオリジナルアルバム「Twin Memories」に収録された楽曲です。ワールドカップは、11月7日に始まりましたが、その前日に行われた開会式では、Winkのコンサートが開催されています。今から、ちょうど28年前のことになります。

 今でも、日本で開催される大会では、ジャニーズなどのタレントが出てきて、相手国に申し訳ないほどの「超ホーム試合」を繰り広げますけど、まあ、昔から同じようなことをやってたわけです。

 この時のライブはYouTube動画で視聴できます。検索しますと「涙をみせないで」「Shining Star」「One Night In Heaven」「Remember Sweet」「淋しい熱帯魚」の5曲がありました。ところが、肝心の「Special To Me」がありません。応援ソングですから、歌っていないことは無いはずですけど・・。

 では、代々木ライブから「Remember Sweet」を。アルバム収録曲ですけど、明治チョコレートのCMで使われていたようですから、ご存じの方もいらしゃるかもしれません。


 音が体育館の鉄屋根に反響しているのでしょうか。グワァン・グワァン鳴ってます。他のテイクは、こんな風になっていないんで、動画には、会場の音を拾っているものと、そうでないものの2系統あるのかもしれません。
 でも、この音響大好きです。壮大な感じで、ビックになりましたっぽく聴こえます。デパートの屋上でキャンペーンイベントをしたら観客が5人だったなんてユニットが、たった一年間でここまできたかって思うと、感動すら覚えるテイクです。

 開会式のイベントですが、ちゃんとステージを組んでの本格ライブのようです。代々木第一体育館と云うと「あやや」の松クリスタルが思い起こされますけど、その15年前の話です。映像から判断すると、会場を横長に使って、ロイヤルボックスのあたりにステージを組んでいるように見えます。次の日から国際大会をするわけですから、アリーナには観客を入れてないと思います。
 1989年の11月というとWinkの超絶頂期です。代々木体育館とはいえ、客席として使えるのはスタンド席の半分だけでしょうから、もの凄い競争率だったと思います。

 1回限りのライブでこれだけのステージを組むのは、さすがバブル期です。ただ、カメラの位置が低くって、見上げるようなアングルばかりなんで、肝心の鈴木早智子さんが全然可愛く撮れていません。

 では、お終いにもう1つ。「Shining Star」は、作詞が「松本隆」氏となっていて、Winkには珍しい正統派アイドルソングです。 


 代々木体育館は、現在、東京オリンピックに向けて大改修中とのことです。外見はそのままのようですが、内部は全て建て替えるそうですから、きっと音響も改善されるのでしょう。

  前の記事で紹介させていただいた「ts」さんのご厚意により、代々木体育館ライブ「Special To Me」のテイクのリンクを貼らせていただけることになりました。聴いていただければ分かるように、いろんな意味で大変臨場感あふれるテイクです。


 歌唱的には、「Wink First Live」よりも上手く歌えているように思います。ただ可愛いだけじゃ無い、でもちゃんと可愛い、と云うWinkの魅力が伝わってきます。