2015年7月4日土曜日

初音ミク、再考 「二息歩行」

  神は、自らに似せて人を創ったという。
  ならば人は、自らに似せて何を造る。

 だいぶ昔になりましたけど、筑波で科学万博が開かれました。僕も理系ヲタクとして何回か通いましたよ。始発で行って、最終で帰ってくれば、どうにか日帰りで楽しめる距離でした。今思えばかなりの強行軍ですけど若かったんですね。

 僕が特に見たかった展示の一つが、ロボットの二足歩行のデモンストレーションでした。やたらでかい、足だけのロボットが今にも倒れそうになりながら、2本足で歩いていました。
 二足歩行は、当時かなり難しい挑戦だったので、実用化なんて程遠いっていう印象でしたし、移動するだけなら、二足にこだわる必要は何もないわけですから、そんなことをやって意味があるのかっていう意見もあったみたいです。
 だけど、それって理系のロマンなんですよね。人と同じように二本足で歩かせたいっていう。で、実現した時にロボットの新たな可能性が一気に広がったわけでしょ。

 で、考えてみたんですけど、ロボットにしたって、ミクにしたって、人が自分たちの分身を作りたがるのって、本能じゃないかって思うんです。
 人って、石コロしかなかった時代から、自分たちの姿を刻んできたわけでしょ。今で云う理系ヲタクみたいな奴がいて、周りからお前何やってんだ、とか云われながら、生きてくのに何の役にもたたない偶像をせっせと作って、喜んでいたんだと思いますよ。
 土偶だって宗教に必要だから作ったんじゃなくって、最初に土偶を作っちゃって、これどうしようって、後から皆で考えたんだと思います。とりあえず拝んでみるかってw

 だから、DTMでコンピューターに音楽を演奏させることが可能になったときに、次は歌わせたい、と考えたのは当然の流れ。だけど、楽器は物、歌は人ですから、そこには、根本的な違いがあります。

 ミクをシンセサイザーの延長線上のもの、オーケストラなどの演奏と同じだと考えれば、ミクの歌に感動するのも、あながちキモいことにはなりません。「ミクには魂がない」というコメントがよくありますが、それを云ったら、ピアノにだって魂はありませんし、感動するのは演奏者に対してだ、というのなら、ミクを歌わせているのも演奏者としての人間です。

 ただ、初音ミクが奏でるのは「言霊」、録音された音声を再生しているわけではありません。器楽というジャンルから完全に一歩踏み出してしまったのも確か、シンセサイザーの演奏の一種だという説明には、やはり無理があります。

 結局、ミクが奏でる音楽は、器楽なのでしょうか、声楽なのでしょうか。

 多くの人たちは、これを声楽とは、認めないでしょう。それならば器楽であるミクの歌に対して、ミクには魂がない、などという批判は矛盾しています。楽器に魂がないのは、当然のことだからです。

 人形浄瑠璃の例を引っ張り出すまでもなく、僕らは、人でないものに対しても等しく感動できる心を持っています。そして、人でないものにも想いをよせることができます。
 ミクには魂はありませんが、ミクの歌には魂があると僕は思います。というか、僕らは、ミクの歌に魂を感じられる心を持っていると思います。
 ミクに歌わせている人の想いがミクを通して僕らに伝わる時、僕は、ミクそのものが想いを伝えているかのように感じるのです。
 バーチャルに感動するということ、それは決して蔑まれるものではなく、人にだけ許された高尚ともいえる精神行為なのです。

  人は、自らに似せて二本足で歩く機械を造り、
  そして、自らに似せて歌う機械を造った。


 で、貼り付けさせていただいたのは、「DECO*27」さんの「二息歩行」です。つくば科学博のロボットと二足繋がりだという単純な理由だけで、他に何もありませんw


 しかし、科学万博とは、真逆の世界観ですね。人類が二足歩行をはじめた理由が、愛する彼女を抱くためだったということ、そして、その前足が意を反して、相手を傷つけるために使われていることなど、
 こういう鬱屈した世界観は、典型的な文系の若者が必ず通る道のように思いますし、こういうことをグダグダ考えていられるっていうのは、若者の特権だと思います。プロの作詞家先生は、こんな詞を書いていたのでは、商売になりませんでしょうし。

 実は、こういった屈折した空想の世界観を歌うことこそ、ボーカロイドの最も得意とするところだと思います。だって、この詞を人間が歌ったら、歌う方も聴いている方も辛すぎると思うんですよ。松浦亜弥さんでは、絶対無理でしょうしw
 
 では、長くなりましたがお終いにします。だいぶ強引でしたね。

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