2016年3月4日金曜日

新美南吉 自筆版「ごんぎつね」の魅力 その1 ~3つの「ごんぎつね」~

 2013年は、新美南吉生誕100年ということで、南吉に関する様々な話題が紹介されました。その中の1つ、教科書に掲載されるなどして、人々に広く知られている「ごんぎつね」は大幅に改作されたものである、という記事に、僕は強い興味を持ちました。そこで、ネットや図書館で、改作される前の「ごんぎつね」の資料を求めるなどして、自分なりに調べてみたところ、僕は、改作前の、つまり真の南吉作品と云える自筆版「ごんぎつね」に魅了されてしまいました。この投稿記事は、南吉が「ごんぎつね」に込めた真の想いを、自分なりに、未熟なりに、考えてまとめたものです。


 「ごんぎつね」として伝わる話は、3つあるとされています。

 1つめは、知多半島の猟師の間で口伝されてきたといわれる「権狐」です。物語の冒頭にある、南吉少年が茂助(茂平)から聞いた話と推測されます。茂助爺が実在の人物かどうかは、分からないそうですが、いわば「茂助爺のごんぎつね」です。
 2つめが、新美南吉が17才の時に創作した「ごんぎつね」です。これを「自筆版ごんぎつね」とします。
 そして3つめが、1932年に雑誌「赤い鳥」1月号に掲載されるにあたって、「鈴木三重吉」氏によって改作された「赤い鳥版ごんぎつね」です。教科書に掲載され、本屋さんに並んでいる「ごんぎつね」は全てこの赤い鳥版になります。

 1つめの「茂助爺のごんぎつね」は、童話ではなく、民間伝承です。民間伝承は、不思議ではあるが事実とされていることを、後の人々に伝えるというものです。「ごんぎつね」は、よくある「昔々ある処に」ではなく、具体的な地名、人名で始まります。この、童話としては異色の始まり方は、この物語が完全な作り話でなく、事実を元にした民間伝承であることを表していると思います。もちろん、物語に真実性を持たせるための技法とも考えられますが、「ごんぎつね」には、元となる話があったと考える方が自然かと思います。
 物語に出てくる「中山様」の末裔、「中山元若」は、明治になって岩滑(やなべ)に居住し、家族ぐるみで新美南吉と交流があったと云われています。中山元若は、小学校の校長などを務め、その妻、「中山しゑ」は、よく幼き日の新美南吉に民話を語り聞かせていたそうですから、もしかしたら「中山しゑ」が、「茂助爺」のモデルなのかもしれません。

 「茂助爺のごんぎつね」は、兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとされています。民間伝承は、不思議だけれども有り得る話です。狐が、償いのために人間の家へ栗や松茸を持ってくると云うのは、どう考えても有り得ない話です。しかし、物語が兵十のおっかあの葬式の場面で終わるとすれば、十分に有り得る話になります。
 狐などの野生動物が村に出没して、人家や畑を荒らすと云うことは、現在でも普通に起きています。村人が獲った魚を、狐が盗むこともあるでしょう。そして、その村人の家で葬式が出たのと時期を合わせるかのように、狐が村に出没しなくなった時、村人たちは、葬式を見た狐が反省し、悪戯をやめたのだと考えたのでしょう。もちろん、それは人間側の勝手な思い込みで、狐が村にやってこなくなったのは、狐の事情に過ぎませんが。
 そういう観点で、改めて物語を読むと、葬式の前と後では、確かに作風の違いがあるように思えます。「ごんぎつね」は民間伝承として伝わっていた有り得る話に、新美南吉が償いをテーマにした、有り得ない創作部分を継ぎ足してできた物語であると考えることができそうです。

 次は、2つめと3つめの「ごんぎつね」についてです。

 沢田保彦著「南吉の遺した宝物」によると、50年ほど前に、半田市の中学校の国語教師、間瀬泰男氏が、教え子から1冊のノートを託されたとありました。その中学生は、南吉の異母弟、新美益吉氏のご子息で、ノートは、益吉氏が兄の遺品整理の際に手に入れたものだったそうです。 ノートには南吉の自筆で、何作かの童話が書かれ、その中に「赤い鳥に投ず」とメモ書きされた「ごんぎつね」がありました。それは、広く伝わっている「ごんぎつね」と、ストーリーは変わらないものの、大きく表現方法等が異なるものでした。赤い鳥に掲載されるにあたって、「ごんぎつね」に大幅な改作がされていたという事実が明るみになったのは、この時からだとされています。
 「ごんぎつね」は、文字数にして、約4500字の物語だそうです。そのうち削除が約800字、加筆が約700字といいますから、改作の部分は、かなりの量になります。新美南吉をこよなく愛する、郷土の教育者や文学愛好者にすれば、それは、許しがたい出来事だと思います。
 ただ、このような改作は、投稿された他の作品でもおこなわれていたようです。児童文学という分野を開拓した偉大な文学者鈴木三重吉氏から見れば、新美南吉は、期待の大型新人とはいえ、田舎の僅か17才の青年です。未熟だと断定した彼の文章を、掲載に値する児童文学の作品とすべく添削することは、三重吉氏からすれば当然なことでした。また、会話文が方言で書かれ、民話的要素が強い自筆版をそのまま掲載するわけにはいかなかったとも考えられます。三重吉氏にとっては、民話と童話は、はっきりと区別されるべきものだったのでしょう。
 ちなみに、鈴木三重吉氏は、同誌に投稿された宮沢賢治の作品を全てボツにしたことでも有名です。理系オタクで宗教にハマっている賢治の作品は、三重吉氏には添削不能でしょうから、分からないでもありません。

 とはいっても、鈴木三重吉氏が「赤い鳥」を創刊しなかったら、日本に児童文学という分野が確立するのは何十年も遅れたでしょうから、鈴木三重吉氏の偉大さは認めざるを得ません。
 但し、三重吉氏の改作は、作品を分かりやすく、ドラマチックにするものであり、改作によって「ごんぎつね」が文学作品として完成したという意見には、容易に賛成できません。なぜならば、2つの「ごんぎつね」を読み比べれば、どちらが優れた物語であるかは、僕のような素人にも分かるからです。

 南吉は、この改作については、生涯何も語ることがなかったそうです。


 自筆版ごんぎつねです。関心のある方はどうぞ。立命館小学校のホームページのようです。


 赤い鳥版ごんぎつねは、巷に溢れていますので、全文は、検索すればいくらでも出てきますw


 先日、新美南吉の故郷である半田市岩滑(やなべ)に行きました。中山様の城跡にできたという記念館を訪ね、権現山など物語の舞台となった岩滑の風景を目の当たりにしたとき、僕は、この「自筆版ごんぎつね」の魅力を僕なりの表現で伝えたいと思うようになりました。国語の教科書に掲載されて60年。全日本人の6割が学んだという「赤い鳥版ごんぎつね」に対して、ごく一部の愛好者にしか知られていない「自筆版ごんぎつね」。その魅力を誰かに伝えたいという想いに取り憑かれてしまったんです。

 今日のところは、ここまでにしますね。先は長いので。

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