2016年3月5日土曜日

新美南吉 自筆版「ごんぎつね」の魅力 その3 ~削除されたプロローグ~

【これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。】

 これは、「赤い鳥版ごんぎつね」の冒頭文です。実は、ごんぎつねの冒頭部分は、実際は、もっと長いものでした。三重吉氏による最大の削除がされているのが、この冒頭部分です。「自筆版ごんぎつね」では、次のようになっています。

【茂助というおじいさんが、私たちの小さかった時、村にいました。「茂助じい」と私たちは呼んでいました。茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。
 私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 細かいところで云うと、茂助爺が茂平になっています。何故、茂助では、だめなのでしょうか。この後の登場人物に、弥助とか加助が出てくるので、区別しやすくするためとも言われていますが、それが理由だとすれば、三重吉氏の改作がいかに徹底していたかということになります。
 これは、僕の個人的なイメージですが、茂平という名前からは、何か、村の物知りのご隠居さんのような人物を想像します。村の子供たちを集めて、のんびり昔話を聞かせるような人物の名前は、茂平の方が似合うと、三重吉氏は、思ったのかも知れません。もし、茂助が実在の人物であったのなら、こんな失礼な話はありませんがw

 さて、削除された部分を読み味わいたいと思います。

【茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから子守ばかりしていました。若衆倉の前の日だまりで、私たちはよく茂助じいと遊びました。】

 「若衆倉」ですが、一般的には、「若衆宿」と言われている、村の青年団の集会所のことだと思われます。新美南吉も13才になると地元の山車組に加入したそうです。山車組の一番の活躍の場は、村の祭りです。この祭の様子は、「狐」という話に出てきます。もっとも、南吉は、おとなしい性格だったそうですから、若衆倉での役割は、庶務や会計の仕事を手伝っていたそうです。
 これだけリアルな記述が出てくるということは、若衆倉の前の日溜まりで、子供たちがよく遊んでいたというのは、実際にあったことのように思います。

 余談ですが、僕の住んでいた町では、すでにこのような制度は、ありませんでしたが、僕の親の時代はあったそうで、酒は飲むし、弱い者イジメはするしで、どうしようもないところだったそうです。中高生の男ばかりを集めて、自由にさせたらロクなことにならないってことですが、しっかりしたキャプテンがいれば、大人が干渉しなくても、しっかりした活動はできるわけで、そういう団では学ぶことも多かったようです。

【私はもう茂助じいの顔を覚えていません。ただ、茂助じいが夏みかんの皮をむく時の手の大きかった事だけ覚えています。茂助じいは、若い時、猟師だったそうです。私が、次にお話するのは、私が小さかった時、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。】

 僕は、此所の部分を読んで、思わず泣きそうになりました。顔は覚えていないが、手の大きかったことだけは覚えている。手を見ればその人の生き様が分かるって言いますけど、この一文で、今は体を壊して子供と遊んでばかりいる茂助爺が、どんな厳しい人生を歩んできたかが目に浮かびます。南吉の巧みな情景描写が味わえる秀文です。

 この削除された冒頭部分は、確かに、この後のストーリーとは、一切関係ありません。それが、削除された一番の理由だと思います。しかし、南吉にとって「ごんぎつね」は、自分の故郷に伝わる、そして故郷を舞台にした大切な話で、決して、「昔々在る処」の話ではありませんでした。だからこそ、このプロローグが必要だったのです。

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