2016年3月5日土曜日

新美南吉 自筆版「ごんぎつね」の魅力 その4 ~中山様というお殿様~

 冒頭部分には、茂助爺ともう1つ、中山様の記述があります。

 赤い鳥版です。
【むかしは、わたしたちの村のちかくの、中山というところに小さなお城があって、中山さまというおとのさまがおられたそうです。
 その中山から、すこしはなれた山の中に、「ごんぎつね」というきつねがいました。】

 自筆版です。
【むかし、徳川様が世をお治めになっていられた頃に、中山に小さなお城があって、中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。
 その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】

 
 まず、「徳川様が世をお治め・・・」という部分が削除されていますが、沢田保彦氏の著書「南吉の遺した宝物」によると、氏は、この作品が投稿された昭和7年という時代が関係しているのでは、という分析をされています。昭和7年という年ですが、3月には、満州国が建国され、5月には、「5・15事件」が起きています。南吉が「ごんぎつね」を発表したのは、正に、日本が太平洋戦争への道を突き進んでいた時代です。「皇国史観、日本は万世一系の天皇陛下が治められていた国」という思想が支配していましたから、「徳川様が世を治める」という記述は、都合が悪かったと言えます。南吉は尾張の国の人間ですから、徳川家に対して親しみを持っていたのかも知れません。しかし、一歩間違えば「赤い鳥」そのものが発行禁止の処分を受けたかも知れない、そんな時代だったのです。
 
 ところが、不思議なことに、削除された部分に「わたしたちの村のちかくの中山」という一節が加筆されています。この「村のちかくの中山」という記述に、沢田氏は、猛反発をされています。ごんぎつねの舞台である「岩滑(やなべ)」は、今は半田市と合併して、半田市岩滑ですが、当時は岩滑村でした。中山は、岩滑村の地名の1つです。ですから、「わたしたちの村の中山」で良いのです。「ちかくの」を入れてしまうと、中山は、岩滑村の外にあることになると言うのです。

 三重吉氏の感覚では、村の中にお城があるのは、不自然と思ったのかも知れません。しかし、この「村にお城があった」というのが、岩滑村の人々の誇りだったのです。
 岩滑村の隣は、半田市(当時は半田町)です。半田は、古くから酒や酢の醸造業が盛んで、お酢の有名なメーカーである「ミツカン」の大きな工場もあります。運河があり、鉄道もひかれている大きな町です。隣の岩滑村は田舎の農村に過ぎません。この「村」が「町」に抱くコンプレックスなどは、南吉の作品「疣」などに面白く書かれています。
 ところが、この地を治めていた中山氏の居城は、半田でなく、岩滑にありました。岩滑は田舎だが城があった、というのが村の誇りでした。

 この心情が、次の記述に表れます。

【中山様というお殿さまが少しの家来とすんでいられました。】

 「小さなお城に少しの家来と住んでいる。」何て、ほのぼのとした表現でしょう。おとぎの国の王様みたいですね。この一文で、中山様がどのような殿様で、いかに村人たちから慕われていたかが分かります。
 ところが、三重吉氏は、これを

【中山さまというおとのさまがおられたそうです。】

 と、書き換えました。確かにシンプルな記述です。氏の求めていることは、児童文学として、子供にも分かりやすい表現でした。しかし、村人にとっての中山様は、時代劇にあるような、農民から厳しく年貢を取り立てるような、お殿様では無いのですw

 さて、この中山様ですが、どのような殿様だったのでしょう。

 新美南吉記念館では、このような特別展が2006年に開催されていたようです。


尾張中山氏についての詳しい記述があります。


 ウィキペディアに戦国時代の武将、中山氏の記述がありますが、この記述をされたのも、このブログ主様のようです。

 戦国時代に岩滑城主となり、この地を治めたのは、「中山勝時」という武将のようです。ただ、岩滑城については、物語に出てくる「中山」ではなく、1kmほど離れた半田市岩滑中町の常福院にあったとされています。中山に在った城は、中山城と記述されています。どちらも城主は、「中山勝時」とされていますが、両城の関係は、旧城と新城、本城と支城、城と館などいろいろと考えられますが、よく分かりません。
 
 中山勝時は、本能寺の変で織田信忠に従い討ち死にしたと伝わっています。その子孫たちは、徳川将軍家の旗本となったり、水野家に仕えたりしたようです。勝時以降の中山氏、つまり江戸時代の中山氏は、主君に仕える武家であり、大名ではありません。中山様が岩滑の城に住み、この地を治めていたのは、戦国時代のことで、中山様というのは、「中山勝時」に限定されることになります。

 【その頃、中山から少し離れた山の中に、権狐という狐がいました。】

 自筆版の「ごんぎつね」は、このように話が始まっていきます。「その頃」とは、中山様がいた頃ですから、この記述通りだとすると、「ごんぎつね」は戦国時代の話ということになります。しかし、兵十や村人たちの記述から考えると、時代は、江戸時代末期、あるいは明治時代初期、のような印象を受けます。兵十のモデルとなったとされる「江端兵重」という人の存在も知られています。「その頃」が本当に戦国時代をさし、「ごんぎつね」の元話が戦国時代まで遡るような古い話なのか、結論づけるには、もっと勉強が必要のようです。

 中山勝時の子孫の中に、尾張徳川家に仕えた系統がいて、御馬廻役や武術師範などを務めていたようです。その末裔「中村元若」氏は、明治になって岩滑に移住しました。中山勝時の子孫が、先祖がかつて治めていた土地に帰ってきたということになります。この中山家は家族ぐるみで新美南吉と交流があり、妻「中山しゑ」は南吉に民話を語り聞かせ、六女「ちゑ」は南吉の初恋の人として知られています。
 中山様は、茂助爺と同じく、物語には、全く関わらない人物です。その中山様を好意的に、物語に登場させたのは、中山家と南吉の個人的なつながりがあったからだと言われています。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

キツネ憑きの話(「戦争に戦う」が「戦争で戦う」になる)
http://exakta.sblo.jp/article/177538163.html