2016年10月30日日曜日

スキマスイッチ「全力少年」feat. 初音ミク&GUMI

 スキマスイッチです。特にファンというわけではないのですが、好きなんです。歌詞も面白いし、ピアノの弾き語りデュオって云うんでしょうか。アフロヘアーはやめてしまったみたいですけど、ピアノのお兄さんが、相変わらずピアニストらしからぬ風貌なのも良い感じです。
 だけど、アルバムを持っているわけでもないし、もちろんライブに行ったこともありません。知っている楽曲って云っても「全力少年」と「奏」くらいなんですけどねw

 YouTubeにもいくつかテイクがアップされていますけど、漁った中では、これが一番だと思いました。ベースラインが強調されていてライブ感というか、バンド感が良く出ています。久しぶりにバンドでも組んで、キーボード弾きたいなって思わせてくれるテイクです。メインのボーカルのお兄さんは、以前はギターを持っていたように思ったのですが、違いましたっけ。


 作詞・作曲が2人の連名なんて、ビートルズみたいです。ビートルズは、直に形式的なものになってしまいましたけど、彼らは、今も仲良く二人で相談しながら楽曲を制作しているんでしょうか。

 で、ボーカロイドカバーでは、これが僕的ベストです。2009年投稿ですから、初期の作品で、ボカロ感丸出しの調教なんですけど、無理に人間に近づけようってしてないところ、開き直っていることが、成功していると思います。


 高音へ上がるところなんて、人間だったら有り得ない歌わせ方ですし、息継ぎもほとんどありませんけど、この楽器っぽさが、妙な安心感につながります。此の手の楽曲を何曲か集めて、仕事用のBGMとして聴くと、邪魔にならなくって良いんですよ。それと、歌に合わせて適当に出てくるイラストのスライドが、不思議と楽曲のイメージに合っているんですよね。

 今回は、もう一つ。同じくボーカロイドカバーですけど、「GUMI」によるテイクです。こちらは、先のと好対照で、人間の歌唱に少しでも近づけようと云う意図が伝わってくるテイクです。


 イマイチな部分が多々あることは否めませんけど、だったらお前やってみろ、って云われたら返す言葉がありません。かなりの努力賞だと思います。
 カバー曲っていうのは、オリジナルと比べられる宿命があるぶん、ボーカロイドの歌唱技術を高めるには、大切な試みだと思いますけど、最近は、こういうことをやってくれるオタさんも減ってしまったようで残念に思います。

 ボーカロイドカバーって、オリジナルのファンであるオタさんの作品と、そうで無いオタさんが作ったものでは、歴然とした差があります。心を込めてボーカロイドに歌わせるというのは、心を込めてピアノを弾くということと同じ行為だと思います。
 まあ、将来、AI技術が応用されて、初音ミクが歌詞を読み込んで、感情表現を自らの判断で出来るようになれば別ですけど、そのためには、歌で感動させるということの根本的な部分を数理的に解明していく必要があるわけで。人間が何不自由なく出来ていることを、何でわざわざ機械にさせなくてはならないのか疑問に思う人も多いと思いますが・・・。

 神は、自らの姿に似せて、人間を創ったという。
 ならば、人間は、自らに似せて、何を造る。

2016年10月23日日曜日

「オシャレ!」松浦亜弥 ~ハロプロファンの皆さん、これが本家ですよ~

 僕がファンになった時には、松浦亜弥さんは、既に、まあ、こんな状態でしたので、ファンとしての活動は、YouTubeの動画にコメントを書き込むくらいのものでした。せっせと書き込んでいたコメントの多くは、消えて無くなるか、下の方に沈んでしまいましたけど、今でもたまーーーーーに読んでくれる人がいるみたいで、Googleからお知らせメールが届きます。で、ここ数日間の出来事なんですけど、「オシャレ!」の通知が続けて何通かきました。何が起きたのだろうって、久しぶりに動画を覗いてみたら、視聴回数も10万回を越えてたんですね。再生されていると云っても、ホントにささやかなことなんですけど、ちょっと嬉しくなりました。
「オシャレ!」は、デビューシングルの候補にも挙がっていたと云うくらいですから、それなりに名曲ですし、ファーストアルバムの収録曲の中でも、人気の曲です。といっても、シングルカットされたわけではありませんから、一般的には、全く知られていないし、何で今頃、注目されているのか不思議に思っていたのですが、どうやらこれが原因のようですね。


 ハロプロファンが、松浦亜弥さんのテイクを訪問していたんですね。「やっぱ本家は違う」とか書き込んでありました。では、本家を。


 15才ですからね、本当に、人前に出て歌うために生まれてきたような子だと思います。半年後がこれです。


 こちらのテイクは、声が出ないようで、若干キツそうですが、振りは大きいし、健康的で、僕は、良いと思いますよ。最近は、グループアイドルですから、振りもこぢんまりしているし、そうでなければ、パフォーマーに任せちゃってるかですから、此の手のステージって、ホントに少なくなってしまいました。

 で、サビのところで、右手を左右に振るんですけど、会場のオタさんたちの振り方が、バラバラなんですよね。手を振るときに、鏡でするのか、コピーでするのか、統一されていないんですよ。初音ミクやアニソンライブでは、ほとんど鏡で手を振ります。理由は、その方が簡単だからです。でもハロプロのライブでは、振りコピをするという伝統があるみたいで、鏡でない、正しい振り付けで全部マネしているんですよね。で、結果的に、鏡とコピーがごちゃ混ぜになっているようです。


 2008年のライブのMCによりますと、どちらかに統一したいけど、双方の主張が平行線で決まらないから、松浦亜弥さんに決めて欲しいという訴えがあったそうです。松浦さんは、「そんなのどうでも良くない?」って取り合いませんでしたけど、このライブテイクを見ていると、明らかに手と手がぶつかり合っています。お互い信念を持っているので、譲り合いません。この問題が、ファンにとって、いかに切実なことだったかが分かります。

 でも、この2008年のテイクでは、手を振る前に、明らかにアピールしていますよね。「今から、手を振るから、準備してね」って感じで。ということは、このお手振りは、振り付けでなっくて、観客へのリードです。ならば、素直に鏡で手を振る方が良いということになります。ですから、次のライブでは・・・?

 久しぶりの松浦亜弥さんの記事だというのに、どうでも良いことを書いてしまいました。

2016年10月14日金曜日

船舶画家「上田毅八郎」追悼展によせて ~神と呼ばれた二人の箱絵画家~

 展覧会の会場、静岡ホビースクエアの売店で買ってきたウォーターラインです。ネットでも買えますけど、こういう物は、テンション物ですから、やはり売店で買ってしまいます。小さい箱が駆逐艦「暁」、大きい箱が巡洋艦「熊野」です。「暁」の箱絵の作者は「小松崎茂」氏、「熊野」の作者が「上田毅八郎」氏になります。箱絵画家の双璧と称された両氏の作品を並べて写真を撮らせていただきました。


  何十年ぶりかで、ウォーターラインを組み立てました。1/700スケールですから、探照灯なんて、米粒よりも小さいんです。でも、タミヤの模型は、どんなに小さい部品でも穴や突起がついていて、ビシッとつけることができます。プラモデル用セメントも昔よりも品質が良いみたいで、ストレスもなく、作っていて気持ちが良かったです。タミヤは金型を外注せず、昔から自社製だそうですけど、改めて、高い技術に脱帽です。
                                
  赤は情熱、青は精密を表しているそうですよ。

 田宮俊作氏(現タミヤ会長)が大学を卒業し、父親の経営する木材模型会社(田宮商事)を手伝い始めたのが、昭和33年。俊作氏は、単純なラベルが貼ってあるだけだった模型の箱に、専門家に描いてもらった軍艦の原画を、写真製版で印刷することを思いつきます。クオリティの高い箱絵をつければ、店頭に並べた時に人目を引き付けることができるし、模型の商品価値も上がると考えたからです。
 そこで、俊作氏は、当時同じ町内に住んでいた「上田毅八郎」氏を訪ねます。毅八郎氏は、塗装業を営む傍ら、趣味で軍艦画を描いていました。氏が描く精密な軍艦は、近所でも評判となっていたからです。毅八郎氏は、俊作氏の申し出を快諾します。

 「上田毅八郎」は、1920年、静岡県藤枝市生まれ、小さい頃から乗り物が好きでよくスケッチをしていたそうです。父親の営む塗装業を手伝った後、召集され、陸軍の徴用輸送船に高射砲兵・機銃士として乗り込みます。従軍していた3年8ヶ月の間にジャワ島、アリューシャン列島、ラングーン湾など南・北太平洋からインド洋まで転戦します。毅八郎氏は、見張りなどの軍務の傍ら、乗船やすれ違う艦船などを軍事郵便ハガキにスケッチしていたそうです。上官の目を盗んで、1枚を数分で描き終え、描いたスケッチは弾薬庫に隠していたそうです。軍艦のスケッチなんて、スパイ活動と疑われれば、大変なことになると思いますが、描きたいという衝動を抑えきれなかったのでしょう。
 毅八郎氏が、海戦の場となった様々な海や空の色、船の速度による煙のたなびき方や波の切り方の違いなどを描きわけることができるのは、氏の従軍による実体験があればこそだと云われています。見張りの時に、見たこともない巨大な戦艦が二隻並んでいるのを見たそうですが、それが「大和」と「武蔵」だったそうです。実戦配備された本物の大和と武蔵を見たことのある人が、絵を描いているんですから、敵うはずがありません。

 毅八郎氏は、26隻の輸送船に乗船し、6回撃沈されたそうです。6回目の撃沈の際に、右腕と右足に大怪我をし、利き腕の自由を失います。復員した毅八郎氏は、ペンキ職人として、看板の文字などを書く仕事の傍ら、趣味として艦船などの絵を「左手」で描き続けていました。
 俊作氏の申し出を受けた毅八郎氏は、日本で最初のボックスアーティストとなりました。

 まもなく、模型は、プラモデルの時代になりました。田宮模型もたくさんのプラモデル商品を発表していきます。しかし、毅八郎氏はあくまでもペンキ職人であり、箱絵画は副業でした。仕事が終わってから描く絵の数には、限界がありました。プラモデルの時代になって、タミヤは小松崎茂氏にも箱絵の依頼をするようになります。

 「小松崎茂」は1915年、東京生まれ、最初は、日本画家を志しますが、転じて、挿絵画家の道を歩むようになります。戦時中から、戦争物や空想科学を題材にした絵物語や挿絵を描き、戦中、戦後を通して、空想科学イラスト、メカイラストに関しては、絶大な人気を博していました。
 タミヤにおける小松崎氏の功績の1つが、モーターライズ戦車プラモデル「パンサータンク」の箱絵です。経営的にも苦しかった当時のタミヤが、社運をかけて制作したのが、モーターで走る戦車のプラモデルでした。氏が描いた「パンサータンク」の絵からは、硝煙やオイルの匂いが漂うようだと云われ、小松崎氏の画力とタミヤの模型技術によって製品はヒットし、タミヤの経営が軌道に乗るきっかけとなりました。


やがて、タミヤは、海外への輸出に力を入れるようになります。そこで懸念されたのが、模型の内容と箱絵のギャップでした。箱に入っていない物を箱絵に描くことは、外国、特にアメリカの消費者団体などから不正表示とされる恐れがありました。タミヤは、商品イメージを膨らませるダイナミックでドラマチックな箱絵から、精密な資料性の高い箱絵への転換を行います。
 小松崎氏のタミヤでの箱絵の仕事は1971年、1/700ウォーターラインシリーズの駆逐艦が最後となりました。最初に貼りつけさせていただいた模型の写真がそれにあたります。
 
 代わって、ウォーターラインシリーズの箱絵を手掛けたのが、上田毅八郎氏でした。毅八郎氏は、この頃、塗装業をやめ、画業に専念するようになります。ウォーターラインシリーズは、静岡の模型会社4社の協同企画製品ですが、毅八郎氏は、それらの箱絵のほとんど全てを担当することになります。
 小松崎氏を芸術家だとすると、毅八郎氏は職人でした。小松崎氏の描いた箱絵には、画家としてのサインがありますが、毅八郎氏の絵には、ほとんどサインがありません。そんなところからも、両氏の作画に対するスタンスの違いが現れているように思います。

 小松崎氏は、タミヤの仕事から手を引いた後も「バンダイ」など国内市場が主力の模型メーカーの箱絵を担当します。特に「今井科学」の「サンダーバード」シリーズは、氏の代表作になりました。小松崎氏のダイナミックで夢にあふれた構図は、アニメ・特撮物の箱絵にうってつけでした。


 小松崎氏が戦後もメカイラストを描き続けたのは、進駐軍の兵士に物乞いをする日本の子供たちの姿を憂いたからだと云われています。氏は、子供たちに夢を与えるためにイラストを描き続けました。夢を与えられた子供たちは大人になり、未来への夢を描くイラストレーターや漫画家になりました。氏のイラストは、現在のアニメ界に多大な影響を与えたと云われています。アニメの原点は「手塚治虫」氏にありますが、メカニックデザインに関しては、その原点は、小松崎茂にあります。

 上田毅八郎氏もまた、船舶の絵を描き続けました。氏の絵から伝わってくるのは、艦船に向けられた強い想いです。ウォーターラインの箱絵の軍艦は、北太平洋の鉛色の海や、南洋のセルリアンブルーの海を進んでいます。ウォーターラインの箱絵に、戦っている軍艦が描かれることはありませんでした。氏は、軍国主義者でも、反戦画家でも無く、ただ、単純に、軍艦が好きだったのだと思います。田宮俊作氏は、追悼文をこう結びました。「これほど日本帝国海軍の艦船を愛情をこめて見事に表現された方が、あったであろうか。」と。




 僕の買ってきたウォーターラインですが、二人の画家について知っていて選んだのだったら格好良かったんですけど、実は偶然なんです。買ったときは、2つとも毅八郎氏の絵だと思っていました。で、家に帰って見てみたら、箱絵のサインが違うじゃありませんか。それで、小松崎氏のことをいろいろと調べて、今回の記事になったというわけです。ぶっちゃけ、ウィキペディアの毅八郎氏と小松崎氏の項目を足して割ったものに、ちょびっと付け加えてできたのが、この記事です。

 小松崎氏がタミヤの仕事から離れた時期と、毅八郎氏が画業に専念する時期が一致しているのは、偶然なのか関係があるのか、僕には分かりません。ただ、タミヤでは、その後も、小松崎氏に教えを受けた、いわば弟子にあたる人たちが仕事をしています。小松崎氏は、当時、多忙を極めていましたから、喧嘩別れをしたというよりも、代われる人があれば、代わりたかったと云ったところだったのかも知れません。

 小松崎氏の華々しい業績に比べると、毅八郎氏の地味な印象は否めません。これは、小松崎氏が画家に師事し、若いときからプロの絵描きとして活躍したのに対して、毅八郎氏は人生の大半をペンキ職人として過ごし、画業に専念したのが50才を過ぎてからだったためです。
 毅八郎氏の葬儀は、家族葬で行われ、その死も田宮会長など極めて親しかった人にしか伝えられませんでした。しかし、その死を知った人たちから、多くの追悼の言葉が寄せられ、追悼展を開くに至ったことは、氏の業績が決して小さなものではなかったことを表していると思います。上田毅八郎の名前を知らなくとも、ウォーターラインの絵を描いた人だと聞けば、「ああ」と思い、展覧会に足を運んだ人も多かったと思います。

 名が広まることはなくとも、その業績は確かに世に残りました。毅八郎の人生は、正に、職人の人生そのものであったと思います。

2016年10月10日月曜日

船舶画家「上田毅八郎」追悼展 ~作品紹介編~

  「艦これ」の記事でも書かせていただきましたが、僕は、子どもの頃、海軍オタクでした。旧日本海軍の艦名をほとんど覚えていましたし、写真を見て艦名を当てることもできました。当然のことながら、プラモデルのウォーターラインシリーズを集めていました。僕は、艦艇が描かれたプラモデルの箱絵にも魅了されていました。プラモデルを作ってしまうと、箱は不要になりましたが、捨てることができなかった僕は、絵の部分を切り取って、大事にとっておいたのを覚えています。

 箱の絵(ボックスアート)を手掛けていた人たちは、箱絵画家と呼ばれ、その出来は、プラモデルの売上げを左右するものでしたから、各社とも力を入れていたようです。その箱絵画家の双璧といわれていたのが「小松崎茂」氏と「上田毅八郎」氏でした。
 上田毅八郎氏は、今年の6月に97才で逝去されました。先週、追悼展が「静岡ホビースクエア」で開かれました。わずか10日間ほどの小さな展覧会でしたが、地元の新聞社やテレビ局に取り上げられたためか、多くの人たちが訪れていました。
来場者は、プラモデルを作っていたようなマニアばかりでなく、一般の方も多かったように思います。お年を召された方が、家族に付き添われたりして、何人か来ていました。「天皇陛下から戴いた船に・・・」なんていう会話をしていましたから、どうやら、若い頃、海軍の兵隊さんだったようです。そうかと思えば、中学生くらいの女の子が、オタク的知識を披露していて、一体この子は、何をきっかけに海軍オタクになったのだろう、「艦これ」の影響だろうか、などと考えてしまいました。

 展覧会では、写真OKでした。「ご自由に撮って下さい。そして、拡散して下さい。作品を沢山の人たちに広めて下さい。きっと故人も喜ぶはずです。」とのことでしたので、僕もたくさん写真を撮ってきました。ただ、ほとんどの絵がパネルに入っていたものですから、蛍光灯などの映り込みがあって、僕の写真の腕ではちょっと力量不足でした。その中で、まあ上手く撮れたものをいくつか貼りつけさせていただきます。


 3本煙突が特徴の「軽巡洋艦」です。船体に錆が描かれているのが分かりますでしょうか。毅八郎氏の絵の最大の特徴は、リアルな描写にあります。氏は、太平洋戦争中に陸軍の高射砲兵・機銃士として輸送船に乗り込んでいました。各艦の波の切り方や船体の錆の出方などは、実戦で本物の軍艦を見ていた毅八郎氏だからこそ描けたと云います。
  「長良」型のようですが、主砲が対空砲に改装されています。調べてみましたら、どうやら軽巡洋艦「五十鈴」のようです。レトロな感じの3本煙突と近代的な対空兵装のアンバランスな感じが面白いです。それにしても、綺麗な海の色です。毅八郎氏は、船を描く前に、まず海や空を描いたそうです。


 こちらは、主砲が単装砲になっています。このタイプの巡洋艦は、旧式で地味でしたので、子どもの頃は、あまり格好いいと思いませんでしたが、大人になって良さが分かってきたように思います。背景も地味で、渋い感じです。「単装砲って、何気に侘び寂び」ってのは「艦これ」の台詞ですが・・・スミマセン、今回は「艦これ」の話は封印します。


 こちらは、新型の軽巡洋艦「阿賀野」型です。同じ軽巡洋艦でも印象がだいぶ違います。新型といっても、この船が就役した時には、すでに航空機戦の時代になっていました。


  僕が、軍艦の中で最も美しいと思っている「重巡洋艦」です。最上型のようです。時化の中を進 む巡洋艦の艦首を波が洗っています。毅八郎氏は、どのくらいの時化だと何処まで波を被るかが分かっていたそうで、決して、想像で描いているのではないとのことです。                                


夕日をバックにした。停泊中の重巡洋艦「鈴谷」です。プラモデル屋さんで、こんな箱絵を見たら絶対欲しくなりますよね。毅八郎氏の箱絵には、戦闘の場面というのが、ほとんど無いのも特徴の1つだと思います。朝焼けだったらごめんなさい。


僕の大好きな巡洋艦「熊野」の原画です。


で、実際の箱がこれです。売店で買ってきました。プラモデルを買うなんて何十年ぶりかです。当たり前のことですけど、「あ、絵が同じだ」って思いました。この箱も捨てられそうにありません。
 主砲が15.5cm3連装砲ですから、重巡洋艦に改装される前の型がプラモデルになっています。この型の巡洋艦は、後に主砲が20.3cm連装砲塔に換装され、重巡洋艦になりますが、15.5cm3連装砲は、かなり使い勝手の良い大砲だったようで、交換される際、砲術士達は、名残惜しがったと云います。撤去された主砲は、「大和」や「武蔵」の副砲として転用されたそうです。


次は、航空母艦です。たぶん「蒼龍」だと思います。先ほど、艦名を全て当てられると云ってしまいましたが、自信がなくなってきました。



艦橋の形からすると、「隼鷹」のようです。同型艦の「飛鷹」かもしれませんけど、「飛鷹」はウォーターラインのラインナップには無いようですから、「隼鷹」だと思います。今頃、何でこんな推理をしているかと云いますと、写真を撮ることばかり一生懸命で、艦名が書いてある札をほとんど見てこなかったからです。
 アメリカの航空母艦みたいなデザインですね。子どもの頃の僕は、空母では正規空母の「翔鶴」「瑞鶴」が好きでした。「隼鷹」は改装空母で地味なイメージだったので、あまり注目してませんでしたが、改めて見るとなかなか格好いいです。プラモデルが欲しくなりました。


駆逐艦です。艦名を推理するのは、あきらめました。会場で出会った女の子なら、きっと言い当てられると思います。


駆逐艦「雪風」です。これは、絵のタイトルをちゃんと見ましたから間違いありません。二番砲塔が機銃座に改装されているので、戦争後期の姿のようです。「雪風」については、以前、記事にさせていただきました。軍艦は、残された資料や写真を見ればある程度正確に描けると思いますが、駆逐艦が進むときの波形などは、余程の確信がなければここまでダイナミックには描けません。「これ、ありえないでしょう」なんて云おうものなら、怒鳴られるでしょうね。本物が海原を進んでいるところを見たという毅八郎でなければ描けない作品だと思います。

 この他にも、戦艦の他にドイツ海軍、アメリカ海軍などの外国の艦艇の絵もたくさんありました。

  上田毅八郎氏は、従軍していた3年8ヶ月の間、赤道近くの南国の海から、極寒の北太平洋まで転戦しました。毅八郎氏は、海戦となった様々な海の色を覚えていて、描き分けることができたそうです。
 乗船した輸送船は26隻。撃沈されること6回。6回目の撃沈の時、右腕に大怪我をして利き腕の自由を失います。ですから、ここに展示されている絵は全て、利き手では無い左手で描かれたものです。戦争で片腕を失うというと、漫画家の「水木しげる」氏を思い浮かべますが、6回も海に投げ出されて、生きて帰ってきたというのは、奇跡としか云いようがありません。


 毅八郎氏は、輸送船の絵を何枚も描いたそうです。残された写真や資料もほとんど無いなかで、毅八郎氏は、戦地でこっそり描いたスケッチと自らの記憶をもとに、失った多くの戦友を想いながら、輸送船の絵を描き続けたそうです。

 上田毅八郎氏がプラモデルの箱絵を描くようになった経緯については、次回ということで。
 今日は、ここまでにさせていただきます。

2016年10月3日月曜日

原田知世「時をかける少女」「ドント・ノー・ホワイ」~奇跡の40代の奇跡の歌声~

 以前、「時をかける少女」の記事でも取り上げさせていただいた知世ちゃんですが、現在NHKで放送中のドラマ10「運命に、似た恋」で斎藤工君と共演するなど、ここのところ、活躍が目立っていますね。ドラマの視聴率も上々、相変わらずの可愛らしさで「奇跡の40代」なんて言われているようです。ドラマの設定では、45才とのことですが、実年齢は、現在48才。この感じでは「奇跡の50代」となるのも確実かと思います。

 まずは、デビュー当時の映像を。伝説の「時をかける少女」、15才の時のテイクです。ちゃんと口パクのテイクを探してきましたから、安心してお聴きください。


 無くなってしまいましたね。では、こちらを。尾道の素敵な街並みとともに。




 口パクで合ってますよね。

 まあ、女優さんですから、歌はそこそこでも、と言いたいところなんですけど、肝心の演技も、ド素人って感じでしたからね。って云うか、ホントに素人だったと思います。田舎から純朴な素人を連れてきて、いきなりカメラの前に立たせて、演技させたり歌わせたりしたって感じです。ところが、それが不思議と嫌悪感を抱かせること無くって、許せちゃって、ハラハラ、ドキドキさせられながらも、応援したくなってしまう。もちろんタレントさんですから、自分を可愛く見せようという仕草もあるんですけど、あざとさが感じられないんですよね。しかし、笑って立っているだけで商売になってるんですから、良い時代だったと思います。大人数のグループで常に競わされている、今のアイドルにしてみると、信じられない話ではないでしょうか。

 2つめは、最近のテイク。「欅坂46」との共演のようです。



 あれっ、ピアノを弾いているのは、武部聡志さんじゃないですか。相変わらずアイドル絡みのお仕事にひっぱりだこのようですが、羨ましい限りです。ユーミンあるところに武部氏有りですね。

 それにしても、歌のキーが凄く下がっています。半音下げとかの話じゃないですよね。ってことは、オリジナルはかなり高いキーで歌わされてたということです。知世ちゃんが、サビのところで、声が裏返ってしまうのを聴かされて、下手くそだな、なんて思っていましたけど、もしかしたら、わざと高いキーにしていたのかもしれません。「作られた歌下手」だとしたら、いくら売れるためとはいえ、酷いことをする大人たちです。まあ、僕も、そんな状況で、はにかみながら歌う知世ちゃんを見て、応援してたんですから、まんまと戦略にのせられたってことなんでしょうけど。

 で、「欅坂46」でメインボーカルをとっている女の子は、「平手友梨奈」ちゃんという子だそうです。2001年6月25日生まれの15才ってことは、松浦亜弥さんがデビューした時には、まだ生まれてなかったってことですよね。それと、「あやや」と誕生日が同じなんですけど、このこと、友梨奈ちゃんは知っているんでしょうか。
 1つ目の知世ちゃんのテイクも、同じ15才なんですけど、比べてみると、いかに知世ちゃんがド素人だったかが分かります。欅坂さんも素人っぽさで売っているのだと思いますけど、全然違いますからね。
 でも、このツーショット、2人は親子以上の年の差なんですよ。知世ちゃんは、既に離婚されていて、お子さんもいないようです。ファンとしましては、こんな感じの女の子がいてくれれば最高だったんですけどね。そういえば、ドラマでもバツイチで、格好いい男の子のお母さんと云う設定でした。

 知世ちゃんは、コンスタントに音楽活動を続けていたようです。最近も、カバーアルバムを二枚ほど出していて、オリコンでTOP10に入るなど、結構売れているそうです。昔の知世ちゃんを知っているファンからは、これまた「奇跡の歌声」なんて云われてるようですけど。「作られた歌下手」という仮説が現実味を帯びてきましたよ。


 へえ~。良い感じじゃないですか。ダイジェスト版ですから、途中で切り替わってしまいましたけど、「Don't Know Why」なんてもっともっと聴いていたいと思いました。
 でも、歌唱力に関しては、化けたと云うよりは、あの頃の延長線上にあるように思います。もしかしたら、15才の知世ちゃんも、もう少し練習して、ちゃんとキーを合わせてあげれば、これくらい歌えていたように思えてきました。
 相変わらず声量は無いし、ただ丁寧に歌っているだけでなんですけど、「Don't Know Why」に関して云うと、松浦亜弥さんのテイクよりも、僕は良いと思います。もちろん、大人になってからの松浦亜弥さんが歌えば、きっと素敵な雰囲気を醸し出してくれるとは思いますけど・・・。

 こちらは、竹内まりやさんのカバーですね。公式ホームページにありました。


 こんなに歌が上手いとは思わなかった、って云うと松浦亜弥さんみたいですけど、似たような現象が知世ちゃんの周りでも起こっているようです。歌手「原田知世」の再評価って感じでしょうか。まあ、最初のハードルがめちゃめちゃ低かったですからね。あの頃は、知世ちゃんが30年後も歌っていて、ライブをするなんて思ってもいませんでした。
 今年も、11月には、全国4カ所でライブを行うそうです。ちょっと覗いてみたら、チケットは即完売みたいです。何てったって知世ちゃんですからね、コットンクラブやブルーノートを満席にするくらい簡単なことだと思います。セットリストは、ジャズやカバー曲が中心になるようですけど、「時をかける少女」もボサノバ・バージョンなんてのがあるそうですから、きっと歌ってくれることと思います。って云うか、時をかける少女は、最初っからボサノバっぽかったですかね。
 
 歌って不思議なものだと思います。誰のどんな歌が心に響くのかなんて、人ぞれぞれだし、どんなに歌唱力のある歌手でも、自分に合わなければ響いてきませんからね。「あやや」の歌は、疲れた心に活を入れてくれる応援歌でしたけど、知世ちゃんの歌は、心に寄り添って癒やしてくれるように思います。
 お終いは、「ドント・ノー・ホワイ」。カバーアルバムからのCD音源のようです。


 う~ん。ライブ動画の方が良いかな。でも、30年変わらない、この透明感。知世ちゃんが、ずーっと知世ちゃんのままでいてくれたことに感謝です。

2016年10月1日土曜日

「色覚障害」 ~僕がピンクの充電器を使っている、全く個人的な理由~

 僕は、色覚異常です。おかげで色々な面白い体験をしてきました。どうも色覚障害者は、自らの体験を語りたがる傾向があるようで、体験談が、本になったりネット上で公開されたりと、巷に溢れています。
 で、前回の左利きの話よりは、若干重くなりますが、僕も負けじと、記事にしてみることにしました。ただ、色覚障害というのは、かなり個人差がありまして、僕の体験が、そのまま他の人にも当てはまるとは限りませんので、そこのところだけは、ご配慮ください。

 よく誤解されるのですが、色覚障害だからといって、色が分からないわけではありません。色は、ちゃんと見えています。だから、紅葉に染まる山々や、神秘的な青い水を湛えた湖を見てその美しさに感動することもできます。問題は、色の中で識別が苦手なものがあると云うことです。
 例えば、黄色とレモン色があります。2つを並べれば、どっちが黄色かなんてすぐ分かりますよね。だけど、片方だけ見せられて、これはレモン色ですかって聞かれたら、一瞬、戸惑うと思います。
 色覚障害者の場合、同じようなことが、緑と赤などでおきます。赤は分かります。緑も分かります。ただ、赤と緑で判別しにくい時があるというわけです。

 僕は、顔色の変化がよく分かりません。「何となく顔色悪いんじゃない」なんて言いますけど、僕はその何となくがわかりません。
 あと、「その肉、少し赤みがかっているから生焼けだよ。」がわかりません。だから、家族で焼き肉屋に行くと、「これ焼けてる?」「これ食べられる?」って聞きます。いちいち聞かれると向こうも煩わしいみたいで、最近は「ここからこっちの肉は、全部焼けてるから大丈夫」って、向こうから先に教えてくれます。
 職場の仲間で焼き肉屋に行ったときは、悲惨でした。僕は、生焼けがイヤなので、大丈夫かな、大丈夫かなって感じで、焼けるのを待っていました。生焼けより焼き過ぎの方がマシですから、どうしてもしつこく焼いてしまいます。そしたら、目の前の肉をどんどん取られてしまったんですよ。いつまでも、焼いているんで、食べる気が無いと思われたみたいです。「これは僕のだから取っちゃダメ」なんて言うのも大人げないし。まあ、その時は、色覚以外の全感覚を総動員して対抗しました。

 ピンクと緑は、普段は間違えません。緑は暗くて、ピンクは明るいからです。でも、ライトグリーンみたいになってくると困ります。それから、鮮やかな緑と薄汚れたピンクなんてのも、ちょっと困ります。
 僕が学生の頃、ブックバンドで教科書なんかを縛って持ち歩くのが流行ってました。僕が買ったブックバンドは、白に少し色が付いたやつでした。自分の感覚では、アイボリーかベージュのつもりでした。で、そのブックバンドを使い始めて半年くらいたった時のことなんですけど、「あのさ、今までずーっと気になってたんだけど。お前、何でピンクのブックバンド使ってんだ?」って言われたんです。アイボリーじゃなくってピンクだったんですよ。何か、凄い拘りを持って使っているかの印象を、周りに与えていたようで、密かに噂になっていたみたいです。でも、人間の感覚というのは不思議なもので、そう言われた瞬間、僕にもブックバンドがピンクに見えたんですよ。
 この前、携帯の充電器を買いに行きました。いろいろ並んでいたなかで、ライトグリーンっぽいやつを買ってきたんですけど、家族に見せたら、これはピンクだって言うんです。何年ぶりかで、同じ失敗をしてしまいました。
 でも、ブックバンドも充電器もちゃんと使い続けましたよ。

 色の識別で厄介なのは、LEDライトみたいに光っているやつです。どの色も眩しく光っているので、明度による区別ができないんです。
 僕にとって一番身近なLEDライトと云えばペンライトです。みなさんご存じの通り、ライブでは、初音ミクはグリーン、巡音ルカはピンク、鏡音リンはイエローっていうふうにタレントごとに色が決まっております。で、みなさん、登場してくる子が変わる度に、ボタンをパチパチ押して色を切り替えているんですけど、僕は、自分の出している色に、ちょっと自信が持てないときがあるんです。初音ミクが歌っているのに、1人でピンクのライト振ってたら恥ずかしいじゃないですか。で、青は絶対間違えませんから、これを基準にして、緑は青の次の次、ピンクは青の1つ手前、みたいに順番で覚えています。ですから、出てくる子が変わる度に、一度青に戻してから、緑は青の次の次って思いだしながらパチパチしているわけです。時々、押しすぎることがあるんですけど、そう云う時は、もう一度青に戻ります。時には、緑をだすために何周もしてしまうことがあります。周りから見ると、「何であいつ、いちいち下を向いて、全部の色を順番に出してんだ」って思われてるかも知れません。
 それから、今年のライブなんですけど、途中で、イエローとオレンジの順番が分からなくなってしまったんです。しかも、鏡音リンとレンでイエローとオレンジを使い分けていたはずなんですけど、どっちがどっちの色かも忘れてしまいました。周りを見て、同じ色を出そうとしたんですけど、分かりません。で、よーーく見たら、何だかごちゃ混ぜなんですよ。家に帰ってネットで調べてみたら、リンがイエローって記述と、リンの方がオレンジって記述があるんです。なんてテキトーなライブなんでしょう。悩んで損した気分です。

 5色のペンライトでさえこうなのですから、パソコンの文字色選びは、もうあきらめています。家族を呼んで「この中で一番薄いピンクってどれ」なんて聞いてます。以前、カーソルを色見本の上に置くと、色の名前が表示される機能のやつがあって、感動しました。カラーユニバーサルデザインって言うそうです。

 色覚障害者の間で必ず話題にあがる物に、東京の地下鉄路線図があります。全部で13路線あるそうです。パステルカラーっていうか、淡い中間色をふんだんに使って、とっても綺麗なんですけど、これが判別しにくいことこの上ありません。図と索引を見比べるのが大変なんですよ。ただ、この路線図は、有名になったおかげで、カラーユニバーサルデザインの実験台となって、いろいろと改良されているようです。


 他には、黄色や赤の点滅している単眼の信号機とか、充電終了を色の変化で知らせるLEDランプなど、1つ1つ取り上げているとキリがなくなってしまいます。

 色覚障害者の体験談で必ず語られるのが、学校の図画工作の授業でのできごとです。絵の具の混色、よーく見て、その通りの色を作って塗る、ということができません。色は見えているのですが、どの色をどう混ぜればその色が作れるのかと云うことが、感覚的に捉えられないんです。だから、色塗りの時は、概念で塗るようになります。空だから青く塗ろう、木の葉だから黄緑にしようって感じです。
 子どもの頃、神社へ写生会に行きました。下絵が終わって色塗りを始めたんですけど、近所のオジさんが僕らの描いた絵を覗きに来ていて、あーだ、こーだとお節介を焼いていました。
 僕は、神社の柱が日の光に照らされてるのを見て、これを表現しようって思いました。柱は、茶色に決めました。で、光の当たっているところは、眩しく光っているんだから黄色にしようと考えたんです。つまり、僕は、神社の柱を茶色と黄色で塗り分けたんです。そしたら、そのオジさんが僕の絵を見て、「黄色は、無いだろう」って言ったんですよ。まあ、僕もその時は、「そりゃそうだろうな」って思ったんですけどね。
 顔の色を塗るときも、自分で混色して作りなさいって云う先生が多いんですよ。折角、はだ色の絵の具があるのに使わせてくれないなんて・・・w

 中三の時のできごとです。高校受験が近づいてきたので、先生たちが面接官役になって面接の練習が始まりました。先生は、用意された質問の中から、理系と文系とどちらに進みたいのかって聞きました。理系小僧でミリタリーオタクだった僕は、迷うことなく理系に進みたいですって答えました。そしたら、面接官役の先生は、「はあっ」て顔をして、「あのさあ、お前は色弱だろ。だからこう云う時は、文系に進みたいですって、答えなさい。」って言ったんです。若い数学の教師でした。挫折感なんていう高級な感情で無くって、普通に衝撃でした。そりゃあ、今までいろいろな失敗はしてきましたけど、色覚障害であることが、そこまで深刻な問題であるなんて、思いもしてませんでしたから。
 家に帰って、母にこのことを話しました。母は、何も言いませんでした。今思えば、余計なことだったと思います。そんなことを言ったところで、どうなるものでもないし、結局、悲しんでしまう人を1人増やしただけのことなんですから。
 
 高校に進学して、僕は理系に進みました。別に中学校の先生に反発したわけでは無くて、ただ単に、国語と英語の成績が悪かっただけのことです。高校時代、僕の最も得意な教科は、皮肉なことに化学でした。僕は、化学に関しては自信がありました。かなり難しい受験問題も解くことができました。でも、この分野には進めないことは分かっていました。色覚異常者は不可という学部や学科も多かった時代です。理系で色覚障害が問題にならない分野は数学科でしたけど、数学は好きではありませんでした。僕は、その頃始まったばかりの、情報関係の学部や経営工学、数学科でもあまり数学ぽくない統計学や応用数学の学科を受験することにしました。

 大学では、地質学のサークルに入りました。山登りがしたかったというのが理由です。採取した岩石で薄片を作り、偏光顕微鏡を使って鉱物を調べるという活動に参加しました。偏光顕微鏡を覗くと、様々な鉱物が光り輝いていてとても綺麗でした。先輩は、偏光板を操作しながら、微妙な色の変化による鉱物の見分け方を教えてくれましたが、僕には分かりませんでした。「この分野には進めないな」と思いました。でも、それは全くの想定の範囲内のことでしたから、別にショックでも何でもありませんでした。山登りをしたいから入ったサークルですから、辞めるつもりもありませんでした。岩石ハンマー持って、あっちこっちの火山を巡検してまわって楽しかったです。

 色覚障害者に対する排除の論理は「何かあったら困るから」という考えが元になっています。点滅信号が分からない者に運転免許を与えて良いのか。肉が焼けたか分からない者に調理師免許を与えて良いのか。顔色が分からない者に医師免許を与えて良いのかって云う具合です。看護師、警察官、公共交通機関の運転手などたくさんの職業で就業制限がありました。
 しかし、色覚障害者と云っても様々ですし、色の判別が苦手でも他から得られる情報で、信号を見分けたり、肉を焼いたり、相手の体調を判断したりできます。日常生活において、色覚障害者が周りの人にほとんど気づかれることが無いのは、そのためです。

 今では、色覚障害に対する考え方も随分変わりました。以前のような門前払いは無くなりました。「色覚異常」を「色覚特性」と呼び換えようと云う意見もあります。入試や就職の際に提出する健康診断表から色覚の欄は削除されています。学校では、もう色覚検査はありません。過去の厳しい就業制限への反発が大きな揺れ戻しになっているかのようです。

 当然のことですが、学校で行われた色覚検査、悪名高い「石原式色覚異常検査」は、好きではありませんでした。最初の1枚目から分からないって言ってるのに、何枚も見せられて、何度も分からないと言わされるのは、つらいものです。でも、それ以上に「これが分からないんだ」って思われていることがイヤでした。先生は、そんな感情を顔に出さないように気をつけていてくれたと思いますけど、出さないようにしようっていう態度って、伝わってきてしまうんですよね。
 僕が受けている人間ドックでも、何故か色覚検査があって、「分からない」って毎回言ってました。僕が分からないって言うと、最近は、看護師さんや検査技師さんの方が恐縮してしまって、「いいんですよ、子どもの時から分かっていますから」って僕が慰めていました。今年もやったんですけど、後で、「スミマセン、今年から検査が無くなっていました」って、また恐縮されてしまいました。あの看護師さんたちの表情が見られなくなってしまうと思うと、それはそれで寂しく思います。

 心配な報告が報道されていました。現在では、色覚異常の子どもの半数が異常に気づかぬまま進学や就職時期を迎え、その6人に1人が進路の断念などのトラブルを経験しているそうです。
 これは、障害者への差別を無くす方法として、「色覚異常は障害では無い。」「色覚異常者はこの世に存在しない」ってことにしてしまったからです。カラーユニバーサルデザインを取り入れるよう進めているから、色覚異常者は困らないはずだ、だから、色覚検査は必要ない、という論理です。しかし、過去に検査が差別を生んでいたからと云って、差別をなくす手段として検査を廃止する、と云う論理が正しいとは思えません。先の報告は、音痴である人が歌手になって初めて自分が音痴であることに気づいたようなものです。確かに、門前払いは、間違っていると思います。しかし、障害を持っていれば困難な場面に遭遇することがあるのも事実です。
 今の制度なら、僕は薬学部への進学も可能です。しかし、実験や実習で苦労する可能性があります。それを乗り越えていく覚悟があるのか、別な道を進むのかの判断が必要です。覚悟を持って薬学部に進学するのと、進学してから色覚障害を持っていることを知るのでは、大きな違いです。

 欧米では、色覚異常者の比率は、日本より少し高いそうで、色覚障害者も社会に広く認知されているようです。欧米の色覚障害者は、自らの障害を隠さないと云います。まあ、僕も結構周りに触れ回る方なんですが、それでも、他人様に手助けをしてもらおうとは思いませんでした。でも、欧米だったら、携帯の充電器を買う場面ではこうなったはずです。

「僕は、色覚異常なんですけど、この充電器は、ライトグリーンですか?」
「これは、薄いピンクです。ライトグリーンは、こちらの商品になります。」

って、それだけのことなんですよね。最近は、日本でも、体の不自由な人の代わりに信号機の押しボタンを押してあげるくらいのボランティアって、自然にできていると思います。色の識別が苦手な人がいた時に、色を教えることだって、同じだと思うんです。ただ、色覚障害は、自分から申告しないと周りの人には分からないってことが、他の障害者と異なるくらいなもので。

 「色覚障害者への差別を撤廃させる会」みたいなところに入って、ハチマキしてデモ行進するのも、方法の1つかもしれませんけど、そこまでしなくてはならないほど、日本って酷い国なんでしょうか。日本には、アメリカみたいに障害者法なんてありませんけど、だから何も出来ないっていうことは無いはずです。

 今度、買いに行くときには、聞いてみましょうか。

 ヤマダ電機の店員さん、どんな対応をしてくれるでしょうかね。きっと、変な顔をすることなく親切に教えてくれそうな気がします。

 お終いは、「マージナル」。いろいろな色が歌詞の中に出てくる、素敵な曲です。


 「ペンライトの色、これで合ってますか?」