2016年10月14日金曜日

船舶画家「上田毅八郎」追悼展によせて ~神と呼ばれた二人の箱絵画家~

 展覧会の会場、静岡ホビースクエアの売店で買ってきたウォーターラインです。ネットでも買えますけど、こういう物は、テンション物ですから、やはり売店で買ってしまいます。小さい箱が駆逐艦「暁」、大きい箱が巡洋艦「熊野」です。「暁」の箱絵の作者は「小松崎茂」氏、「熊野」の作者が「上田毅八郎」氏になります。箱絵画家の双璧と称された両氏の作品を並べて写真を撮らせていただきました。


  何十年ぶりかで、ウォーターラインを組み立てました。1/700スケールですから、探照灯なんて、米粒よりも小さいんです。でも、タミヤの模型は、どんなに小さい部品でも穴や突起がついていて、ビシッとつけることができます。プラモデル用セメントも昔よりも品質が良いみたいで、ストレスもなく、作っていて気持ちが良かったです。タミヤは金型を外注せず、昔から自社製だそうですけど、改めて、高い技術に脱帽です。
                                
  赤は情熱、青は精密を表しているそうですよ。

 田宮俊作氏(現タミヤ会長)が大学を卒業し、父親の経営する木材模型会社(田宮商事)を手伝い始めたのが、昭和33年。俊作氏は、単純なラベルが貼ってあるだけだった模型の箱に、専門家に描いてもらった軍艦の原画を、写真製版で印刷することを思いつきます。クオリティの高い箱絵をつければ、店頭に並べた時に人目を引き付けることができるし、模型の商品価値も上がると考えたからです。
 そこで、俊作氏は、当時同じ町内に住んでいた「上田毅八郎」氏を訪ねます。毅八郎氏は、塗装業を営む傍ら、趣味で軍艦画を描いていました。氏が描く精密な軍艦は、近所でも評判となっていたからです。毅八郎氏は、俊作氏の申し出を快諾します。

 「上田毅八郎」は、1920年、静岡県藤枝市生まれ、小さい頃から乗り物が好きでよくスケッチをしていたそうです。父親の営む塗装業を手伝った後、召集され、陸軍の徴用輸送船に高射砲兵・機銃士として乗り込みます。従軍していた3年8ヶ月の間にジャワ島、アリューシャン列島、ラングーン湾など南・北太平洋からインド洋まで転戦します。毅八郎氏は、見張りなどの軍務の傍ら、乗船やすれ違う艦船などを軍事郵便ハガキにスケッチしていたそうです。上官の目を盗んで、1枚を数分で描き終え、描いたスケッチは弾薬庫に隠していたそうです。軍艦のスケッチなんて、スパイ活動と疑われれば、大変なことになると思いますが、描きたいという衝動を抑えきれなかったのでしょう。
 毅八郎氏が、海戦の場となった様々な海や空の色、船の速度による煙のたなびき方や波の切り方の違いなどを描きわけることができるのは、氏の従軍による実体験があればこそだと云われています。見張りの時に、見たこともない巨大な戦艦が二隻並んでいるのを見たそうですが、それが「大和」と「武蔵」だったそうです。実戦配備された本物の大和と武蔵を見たことのある人が、絵を描いているんですから、敵うはずがありません。

 毅八郎氏は、26隻の輸送船に乗船し、6回撃沈されたそうです。6回目の撃沈の際に、右腕と右足に大怪我をし、利き腕の自由を失います。復員した毅八郎氏は、ペンキ職人として、看板の文字などを書く仕事の傍ら、趣味として艦船などの絵を「左手」で描き続けていました。
 俊作氏の申し出を受けた毅八郎氏は、日本で最初のボックスアーティストとなりました。

 まもなく、模型は、プラモデルの時代になりました。田宮模型もたくさんのプラモデル商品を発表していきます。しかし、毅八郎氏はあくまでもペンキ職人であり、箱絵画は副業でした。仕事が終わってから描く絵の数には、限界がありました。プラモデルの時代になって、タミヤは小松崎茂氏にも箱絵の依頼をするようになります。

 「小松崎茂」は1915年、東京生まれ、最初は、日本画家を志しますが、転じて、挿絵画家の道を歩むようになります。戦時中から、戦争物や空想科学を題材にした絵物語や挿絵を描き、戦中、戦後を通して、空想科学イラスト、メカイラストに関しては、絶大な人気を博していました。
 タミヤにおける小松崎氏の功績の1つが、モーターライズ戦車プラモデル「パンサータンク」の箱絵です。経営的にも苦しかった当時のタミヤが、社運をかけて制作したのが、モーターで走る戦車のプラモデルでした。氏が描いた「パンサータンク」の絵からは、硝煙やオイルの匂いが漂うようだと云われ、小松崎氏の画力とタミヤの模型技術によって製品はヒットし、タミヤの経営が軌道に乗るきっかけとなりました。


やがて、タミヤは、海外への輸出に力を入れるようになります。そこで懸念されたのが、模型の内容と箱絵のギャップでした。箱に入っていない物を箱絵に描くことは、外国、特にアメリカの消費者団体などから不正表示とされる恐れがありました。タミヤは、商品イメージを膨らませるダイナミックでドラマチックな箱絵から、精密な資料性の高い箱絵への転換を行います。
 小松崎氏のタミヤでの箱絵の仕事は1971年、1/700ウォーターラインシリーズの駆逐艦が最後となりました。最初に貼りつけさせていただいた模型の写真がそれにあたります。
 
 代わって、ウォーターラインシリーズの箱絵を手掛けたのが、上田毅八郎氏でした。毅八郎氏は、この頃、塗装業をやめ、画業に専念するようになります。ウォーターラインシリーズは、静岡の模型会社4社の協同企画製品ですが、毅八郎氏は、それらの箱絵のほとんど全てを担当することになります。
 小松崎氏を芸術家だとすると、毅八郎氏は職人でした。小松崎氏の描いた箱絵には、画家としてのサインがありますが、毅八郎氏の絵には、ほとんどサインがありません。そんなところからも、両氏の作画に対するスタンスの違いが現れているように思います。

 小松崎氏は、タミヤの仕事から手を引いた後も「バンダイ」など国内市場が主力の模型メーカーの箱絵を担当します。特に「今井科学」の「サンダーバード」シリーズは、氏の代表作になりました。小松崎氏のダイナミックで夢にあふれた構図は、アニメ・特撮物の箱絵にうってつけでした。


 小松崎氏が戦後もメカイラストを描き続けたのは、進駐軍の兵士に物乞いをする日本の子供たちの姿を憂いたからだと云われています。氏は、子供たちに夢を与えるためにイラストを描き続けました。夢を与えられた子供たちは大人になり、未来への夢を描くイラストレーターや漫画家になりました。氏のイラストは、現在のアニメ界に多大な影響を与えたと云われています。アニメの原点は「手塚治虫」氏にありますが、メカニックデザインに関しては、その原点は、小松崎茂にあります。

 上田毅八郎氏もまた、船舶の絵を描き続けました。氏の絵から伝わってくるのは、艦船に向けられた強い想いです。ウォーターラインの箱絵の軍艦は、北太平洋の鉛色の海や、南洋のセルリアンブルーの海を進んでいます。ウォーターラインの箱絵に、戦っている軍艦が描かれることはありませんでした。氏は、軍国主義者でも、反戦画家でも無く、ただ、単純に、軍艦が好きだったのだと思います。田宮俊作氏は、追悼文をこう結びました。「これほど日本帝国海軍の艦船を愛情をこめて見事に表現された方が、あったであろうか。」と。




 僕の買ってきたウォーターラインですが、二人の画家について知っていて選んだのだったら格好良かったんですけど、実は偶然なんです。買ったときは、2つとも毅八郎氏の絵だと思っていました。で、家に帰って見てみたら、箱絵のサインが違うじゃありませんか。それで、小松崎氏のことをいろいろと調べて、今回の記事になったというわけです。ぶっちゃけ、ウィキペディアの毅八郎氏と小松崎氏の項目を足して割ったものに、ちょびっと付け加えてできたのが、この記事です。

 小松崎氏がタミヤの仕事から離れた時期と、毅八郎氏が画業に専念する時期が一致しているのは、偶然なのか関係があるのか、僕には分かりません。ただ、タミヤでは、その後も、小松崎氏に教えを受けた、いわば弟子にあたる人たちが仕事をしています。小松崎氏は、当時、多忙を極めていましたから、喧嘩別れをしたというよりも、代われる人があれば、代わりたかったと云ったところだったのかも知れません。

 小松崎氏の華々しい業績に比べると、毅八郎氏の地味な印象は否めません。これは、小松崎氏が画家に師事し、若いときからプロの絵描きとして活躍したのに対して、毅八郎氏は人生の大半をペンキ職人として過ごし、画業に専念したのが50才を過ぎてからだったためです。
 毅八郎氏の葬儀は、家族葬で行われ、その死も田宮会長など極めて親しかった人にしか伝えられませんでした。しかし、その死を知った人たちから、多くの追悼の言葉が寄せられ、追悼展を開くに至ったことは、氏の業績が決して小さなものではなかったことを表していると思います。上田毅八郎の名前を知らなくとも、ウォーターラインの絵を描いた人だと聞けば、「ああ」と思い、展覧会に足を運んだ人も多かったと思います。

 名が広まることはなくとも、その業績は確かに世に残りました。毅八郎の人生は、正に、職人の人生そのものであったと思います。

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