2017年2月25日土曜日

ウォーターライン製作記③ ~巡洋艦「摩耶」と火垂るの墓~ 精密化へ突き進むフジミ編

 1992年にフジミは静岡模型教材協同組合から脱退し、ウォーターラインシリーズから自社開発分の製品を引き上げ、新たにシーウェイモデルシリーズとして販売を行うこととなった。
 
  フジミ脱退の理由については、よく分かりません。組合を牛耳るタミヤへの反発とも、ウォーターラインシリーズで不人気艦ばかりを押しつけられた不満からとも云われています。この脱退により、フジミは静岡ホビーショー等への参加が不可能になりましたが、その代わりに、売りたい製品、売れそうな製品を自由に開発・販売することができるようになりました。
 また、フジミが抜けたことにより、残された3社は、フジミ担当分の艦船を再配分することになりました。各社は、新しい金型をおこすことになり、それをきっかけに他の製品のリニューアルも行われました。フジミの脱退が、停滞していたリニューアルを進める一因になったというのは、皮肉なことではあります。


 フジミの昔のマークです。僕が子どもの時は、これでした。舵輪がデザインされていることからも、船舶模型に力を入れていたことが分かります。

 脱退当初は不評だったフジミのモデルも、現在では高く評価されています。Amazonのレビューの評判もとても高いんです。評価されている点は、何と云っても、その精密さです。1/350モデルの設計をそのまま1/700に採用したといわれている細かさにあります。機銃弾の格納箱みたいな、今までだったら省略されていたような物まで表現されています。部品もとても細かくって、精密ピンセットがなければ絶対に組み立てられません。
 ディテールに拘った製品は、多くのモデラーの支持を得ました。今の子どもはプラモデルなんて買わないでしょうから、プラモデルを購入する年令層が高くなっています。このことが、組み立て易さより、作り応えのあるものが好まれる理由なのでしょう。

 ただ、僕としまては、フジミのモデルは、あまり評価できませんです。フジミが悪いというよりも、自分に合わないってことでしょうか。

 まず、素材であるプラスチィックが硬いように思います。ですからニッパーで切り離したときに切断面が白くなってしまうんですよね。普通のモデラーさんなら塗装しますから関係ないかもしれませんが、素組み派の自分にとっては、ちょっとテンションが下がる事態です。
 それから、部品を分割しすぎのように思います。精密であることと部品数が多いことは必ずしもイコールとは思いません。一体成形してしまった方が良いんじゃないかってものもあるように思います。
 しかも、1つ1つの部品がゴマ粒みたいになってますから、結局、成形が追いついていないんですよね。もう、部品と云うより、プラスティックのかけらです。これを接着剤で付けるわけですから、どうしてもセメントがはみ出たりして、汚れてしまいます。
 これを作り応えがあると感じるか、無駄な労力と感じるかの違いなんですけど、僕的には、要らぬ作業のように思えてしまいます。
ですから、モデラーさんたちには、高評価かもしれませんけど、僕は、あまり好きになれなかったです。

 でも、頑張って作りましたよ。ゴテゴテしているのは、対空能力強化後の姿だからです。ハリネズミのように機銃を増設していますが、ここまでやってしまうと、勇姿というよりも、米軍の航空機攻撃を恐れる憐れな姿に見てしまいます。


 同じ巡洋艦の熊野(奥)と並べてみました。建造されたのは、摩耶の方が古いのですが、熊野が海戦時のモデルであるのに対して、摩耶は改装後の姿になっています。
 それから、フジミとタミヤの雰囲気の違いも感じていただけるのではないかと思います。


 箱絵は、「高荷義之」氏によるものです。高荷氏は、このブログでも取り上げさせていただいた、ボックスアートの神「小松崎茂」氏に師事していたイラストレーターで、フジミの製品の箱絵を多く担当しています。精密イラストというよりも迫力満点の絵画っていう感じで、古き良き昭和のイメージです。上田毅八郎氏の作風と好対照なところも面白いです。
 高荷氏は、「風の谷のナウシカ」のポスター用イラストを担当したそうですが、云われれば確かに同じ作風で納得しました。って云うか、あれって宮崎氏自身が描いたのだと思ってました。


 「摩耶」をもう1つ有名にしているのは、アニメ映画「火垂るの墓」で、主人公の清太の父が乗っていた艦が摩耶とされていることでしょうか。

 「火垂るの墓」の原作者「野坂昭如」氏は、少年時代神戸に住んでいました。「摩耶」は、神戸造船所で建造され、艦名も神戸市の摩耶山にちなんで付けられました。1930年の進水式には、3万人の群集が集まったそうですから、神戸の人たちにとっては、なじみ深い軍艦だったようです。アニメでは、華やかな観艦式の場面が登場しますが、1936年には実際に神戸沖で観艦式が開かれています。
 物語に登場する軍艦を「摩耶」に設定したのは、野坂氏の実体験が元になっているのは、間違いないようです。

 清太の父は海軍大尉という設定だそうです。父が乗っていた摩耶は、重巡洋艦ですから、艦長は大佐です。副長・航海長が中佐、砲術長あたりが少佐だと思いますから、大尉と云うと、水雷長とか、副航海長あたりでしょうか。巡洋艦には約1000人の兵が乗っていますが、大尉は、巡洋艦ではナンバー5くらいの序列になります。

 アニメの制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲氏が担当しました。宮崎駿先生は、海軍大尉の子息ともなれば、様々な援助が受けられるはずで、いくら戦後の混乱期とはいえ、栄養失調で死ぬなど有り得ないと、噛みついたそうです。
 さらに、「摩耶」が撃沈されたのは、レイテ沖海戦の時で、終戦の1年以上前のことです。救助され、他の部隊に編入された後に戦死ということも考えられますが、士官の戦死というのは大きな出来事ですから、海軍大尉である父親の戦死を、最後まで知らされないというのも不自然です。
 
 まあ、「清太の父親は海軍大尉で巡洋艦摩耶に乗っていて戦死した」という設定自体に無理があるようです。「火垂るの墓」は、野坂氏の実体験が元になっているとはいえ、かなり創作性の高い作品ですから、何となく「摩耶」にした程度のことなのでしょう。

 現実世界での巡洋艦「摩耶」は、高雄型の4番艦として建造されました。高雄型は、城郭のようにそびえ立つ艦橋が特徴で、レイテ沖海戦では、米潜水艦が戦艦と間違えたほどです。摩耶は、ラバウル空襲で大破し、その損傷修理の際に対空能力を強化し、連装高角砲6基、3連装機銃13基と戦艦並みの対空能力を持つにいたります。
 「摩耶」は、レイテ作戦で、主力である栗田艦隊の一艦として出撃しましたが、米潜水艦の攻撃により、4本の魚雷を受けて沈没しました。この時は、2隻の米潜水艦の攻撃で、日本の重巡洋艦が一度に3隻も撃沈されるという有様でした。

 実は、戦争後半になると、航空機よりも潜水艦による被害が目立つようになります。日本の対潜水艦能力が極めて貧弱だったことに加えて、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読し、艦隊の行動先に潜水艦を待ち伏せさせていましたから、損害は増える一方でした。

 対空能力を強化したのに潜水艦に撃沈されるというのは、何とも皮肉なことです。摩耶は被雷からわずか8分で沈没し、艦長以下336名が戦死しました。救助された乗組員は、戦艦武蔵に移乗しますが、その武蔵も翌日に撃沈、副長以下162名が戦死します。摩耶の乗組員は、二日連続で撃沈を経験したことになります。それでも、生存者は600名以上いて、内地に帰っていますので、清太の父が戦死していたとしても、なんらかの連絡はされているはずですって、もはや無用なツッコミでしたね。

 戦争映画では、艦が沈む時に艦長も運命を共にするみたいなシーンがよくあって、摩耶の艦長も撃沈時に戦死しています。
 ただ、これは、艦長が修理担当の兵とギリギリまで沈没を回避する努力をしていた結果、避難が間に合わなくなることが多かったからで、避難できたのにあえて残った艦長というのは、それほど多くないとのことです。海軍からも、艦長は生還を心がけるようにという通達が出ていたそうです。現代でも、艦長は最後に避難するものという風潮がありますけど、だからといって、運命を共にするってわけでは無いですからね。
 逆に、副長は生存した乗組員への指揮と、軍への報告のため、真っ先に避難するのが慣わしだったそうです。映画のシーンによくある、副長が「私もお供します。」なんて云うのは有り得ない話で、実際、摩耶の副長も避難していて、移乗した武蔵で生存した乗組員を指揮しています。

 日本海軍は、イギリス海軍をお手本としていましたから、多少は合理的なところもあったみたいです。

2017年2月19日日曜日

ウォーターライン製作記② ~戦艦「山城」とレイテ海戦~ オタクと共に歩むアオシマ編

 僕が子どもの頃のアオシマの製品は、酷いものでした。子どもだった僕にも分かりました。ウォーターラインで各社がどの艦船を担当するかは、「大和」が「タミヤ」である以外、くじ引きで決まったそうですけど、組み立てたい艦がアオシマの担当だったりしたら、かなり落ちこみました。
 ただ、近年、「艦これ」とコラボしたりして、ウォーターラインシリーズに一番力を入れているのが「アオシマ」なんです。

  僕が組み立てたリテイク版「山城」は、アオシマの新作です。技術の進歩とはこういうことかと思い知らされました。今の金型って、職人さんがコツコツ作っているわけじゃなくって、コンピュータ制御の工作機械で作っているでしょうから、設計データさえしっかりしていれば、どのメーカーが作っても差は無いみたいです。メーカーに関係なく、新しいものほど良いという時代になったわけです。
 ただ、それはあくまでも部品の成形に関しての話であって、どのようにパーツ分けをするのかなどの設計に関しては、各メーカーのセンスが問われることになります。  

 ウォーターラインには、メーカー共通部品というのがあって、三連装機銃なんかは、どの箱にも同じパーツが入っています。しかも古い。新型の金型ならばもっとディテールにこだわった部品が作れるはずなんですが、こういうところは、共同企画の弊害だと思います。
 まあ、ヨドバシの模型売り場とかに行けば、専門メーカーによるアフターパーツもあるんですけど、入れ込み始めるとキリがないですからね。

 「艦これ」が「ウォーターライン」に与えた影響は計り知れませんが、現在ではプラモデル全般にその影響が表れています。
 プラモデル売り場を久しぶりに訪れたとき、何より驚いたのは、戦車も、城も、飛行機も、全てと云って良いくらい、箱に女の子のイラストが描かれていたことです。あれでは、オジさんが一般のおもちゃ売り場のレジに持って行くには、かなりの勇気が必要です。
 ウォーターラインの「艦これ」コラボ製品には、キャラクターの女の子がデカデカと描かれていて、肝心の船のイラストがありません。知らない人が見たら、女の子のフィギュアを買ったんだって思うはずです。中には、シールとかカードが入っているそうですけど、それだけで値段が倍近く跳ね上がります。

 でも、艦これ人気のおかげで、製品のリニューアルが進んだり、給糧艦「間宮」なんていう余程のオタクでなければ知らなかった艦まで製品化されたわけですから、モデラーさんとしては、微妙なところのようです。

 今回製作した戦艦「山城」は、生まれ変わったアオシマの渾身の作品で、1944年リテイク版です。1944年というのは、レイテ海戦の年ですから、「山城」の最終形になります。


 箱絵は、一見すると「上田毅八郎」氏のタッチなんですが、海も空も何となく違和感があります。箱絵にサインが無いのは、毅八郎氏にもあることですが、説明書にも作者名の紹介がありません。あと、アメリカの魚雷艇と交戦している場面なんですよね。以前も書きましたけど、毅八郎氏が戦闘場面を描くことはほとんどありませんし、この時の海戦(スリガオ海峡夜戦)は、深夜に行われましたから、史実とも違います。やはり、このイラストは別の作家さんなんでしょうか。

 リテイク版は、一部のパーツを新規に作り替えた物のようですが、旧部品をそのままにして、新規のパーツを加えるという形をとっています。これだと必要最小限の金型で済みますからね。差し替えよりも追加の方が簡単なのでしょう。これによって、大量の旧部品が使われずに残りますけど、原材料のプラスチックなど、タダみたいなものですからね。
 あと、旧部品と新部品の両方が箱に入ってますから、どこが変わったのか比べることができます。「山城」の場合は、煙突がリテイクされてましたけど、旧部品では一体成形されていた配管が別パーツになっていて、かなりリアルになってました。

 現実世界の「山城」は、大正6年に竣工した初めての純国産戦艦でした。それまでの日本には戦艦を建造する技術はなく、山城以前の戦艦は、イギリスなどに発注して購入したものでした。
 昭和2年には、昭和天皇の御召艦に指定されたり、昭和3年には、連合艦隊旗艦になるなど、日本海軍の主要艦として活躍しますが、太平洋開戦時は竣工から既に30年近く経ち、最大速力23ノットでは機動部隊の護衛にも使えず、開戦後は、内地待機、練習艦として使用されていました。

 そんな旧式戦艦「山城」が実戦投入されたのが、レイテ沖海戦です。「山城」は、同型艦「扶桑」とともに戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦4で編成された「西村艦隊」の旗艦として出撃します。
 レイテ沖海戦(捷一号作戦)は、日本海軍が残る戦力のほぼ全てを投入して行った、太平洋戦争最後で最大の作戦でした。攻撃の主力は、戦艦「大和」「武蔵」を中心とする「栗田艦隊」。「西村艦隊」は、別動部隊としてレイテ島を目指しました。本隊と別行動となったのは、補給の遅れで同時に出撃できなかったこと、低速の山城との行動を栗田司令官が危惧したことなどがあげられています。
 
 これに対して、アメリカ軍は、新鋭戦艦を有する栗田艦隊に機動部隊の攻撃を集中させ「武蔵」を撃沈。一方、旧式戦艦で構成された西村艦隊には、戦艦を中心に構成された艦隊を待ち伏せさせました。スリガオ海峡夜戦と呼ばれたこの海戦は、太平洋戦争では珍しく、航空機が関与しない、水上艦同士の海戦となりました。戦艦同士で撃ち合った最後の海戦とされています。


 夜間戦闘をイメージして撮りました。主砲を6基12門搭載した姿は、プラモデル的には、格好いいのですが、構造的に多くの欠陥を抱え、失敗艦とされていました。まあ、初の国産戦艦ですから致し方ありません。この教訓は、後の戦艦大和へと生かされていくわけですし。
 レイテ作戦時の山城には、航空機の攻撃に対抗するため、多数の機銃が増設されていました。3連装機銃1基について9人の兵士が配属されていたそうです。しかし、高速で防御力の高いアメリカ軍機を撃ち落とすのは容易でなく、防盾が無いため、爆弾や銃撃により多くの命が失われることになりました。

 アメリカ艦隊は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻で構成された大艦隊でした。この戦艦群は、真珠湾攻撃で日本の機動部隊が撃沈した戦艦で、引き揚げられた後、修理・改装された艦だったそうです。

 西村艦隊は、栗田艦隊の到着を待たず、単独で夜の海峡へ突入しました。アメリカ艦隊は、戦艦、巡洋艦のレーダー射撃と駆逐艦の魚雷攻撃で迎え撃ちます。この艦隊対艦隊の砲雷撃夜戦というのは、日本海軍が絶大な自信を持ち、待ち望んでいた戦闘でしたが、戦力差はあまりにも大きく、一方的な戦いになります。
 帰還できたのは、駆逐艦1隻のみ。戦闘が夜間に行われたこと、艦隊がほぼ全滅したことで、救助活動が行われず、艦隊全体では4000人以上の戦死者を出し、山城も1500人いた乗組員の内、生還できたのは10人だったそうです。
 「山城」は、艦橋が崩れ落ち、撃沈する直前まで、主砲を発射し続けていたという証言があります。「山城」は、本来ならば実戦に投入されるべきもないような旧式戦艦でしたが、その最期は最も戦艦らしいものだったといえます。

 西村艦隊が、単独での突入を敢行した理由は不明ですが、この日送られた、連合艦隊司令部からの悪評高い電報が知られています。
「天佑ヲ確信シ全軍突撃セヨ」
 司令部の最大の役割は、後方からの情報支援のはず。実戦部隊に対して、内地から頑張れと云っているだけの、全く内容の無いこの電文は、現場に混乱と反発を招き、何より、この作戦が「天佑」を前提にしたものであったことを語っています。

 僕が子どもの頃、レイテ沖海戦というと栗田艦隊の敵前ターンが有名でした。戦艦大和がレイテ湾に突入していれば、歴史が変わったかのような論議は、作戦そのもの問題点を司令官個人の判断ミス(英断だったかもしれない)に矮小化しただけのことでした。
 この時期の戦闘は、全て負けるために行われていたように思えます。しかし、負けたことによって現在の日本があるとすれば・・・、それがあの戦争の唯一の意味だったのかもしれません。

2017年2月17日金曜日

「100回のKISS三昧」②~松浦亜弥13年のキセキ~ アイドル歌唱編

 今回取り上げさせていただく動画は、松浦亜弥さんデビューの2001年から2003年まで、「あやや」の絶頂期と云える時期の3テイクです。


 まずは、2001年冬のテイク。実年齢は、中学3年生。この頃から髪の毛を染めるなど、タレントっぽくなってきたようです。ファーストステージからまだ1年も経っていないのですが、歌い方にもかなりの変化が見られます。
 まずは、視線でしょうか。ファーストステージでは、視線が定まっていませんですよね。宙に浮いているように思います。まあ、緊張しているんですから仕方ありませんね。
 こちらは、テレビテイクですから、カメラが寄ったらカメラ目線は、アイドルの鉄則ですけど、もはや新人とは云えないようなタレントさんでも、歌うと視線がさまよっている人もいます。口パクAKBはともかく、きちんと歌いながらカメラに視線を送ると云うのは、簡単そうで意外と難しいことなのかもしれません。


 2002年は、ファーストコンサートからのテイクです。この曲の歌い方としては、若干合わないように思いますが、この時のセットリストが「ドッキドキ!LOVEメール」「絶対解ける問題」ときての「100回のKISS」ですからね。前2曲であれだけ走り回って、よくこれだけ歌えるものです。しかもこの後、「トロピカ~ル恋して~る」「LOVE涙色」って続くわけですから。

 以前、モーニング娘のライブDVDを見る機会があったんですけど、ライブ後半になると、「田中れいな」とか「道重さゆみ」はともかく、他の子たちなんて、もう息が切れてるんですよね。それと比べると「あやや」の凄さが分かります。 まあ、あっちは10人でやってるからどうにかなるんですけど。
 ただ、凄いことは凄いぞって分かるようにやらないとね。普通にやってしまうからスルーされちゃうんですよ。勿体ない話です。


 2003年は、春のコンサートツアーからの動画になります。以前取り上げさせていただいたときにも云いましたけど、僕的には、アイドル系歌唱におけるベストテイクとさせていただいております。
 「可愛らしさ」と「芯の強さ」となんともいえない「切なさ」がある「松リングPINK」のテイクが僕は一番好きです。でも、あんまり聴いてもらってないんでよね。「100回のKISS」は、元々が視聴回数が少ないですけど、その中でもなかなか増えてくれません。

 この3つのテイクの時間差は二年半です。アレンジも同じですから、個別に聞き流してしまえば、どれも大差ないってことになりますけど、それでも並べて聴き比べれば、僅かな期間にも「あやや」の成長ぶりを感じることができます。それは、CDよりもライブのほうが上手いという現象からも知ることができます。

  2001年から2003年前半は、彼女が最も輝いていたときだと思います。

 そして、それは、つんく♂氏も同じだったのではないでしょうか。自分の歌の世界観を完璧に表現してくれる女の子を手に入れたのですから。

2017年2月12日日曜日

ウォーターライン製作記①  眠れる巨人タミヤ編  ~巡洋艦「熊野」・航空母艦「隼鷹」と南太平洋海戦~

 昨年の秋に「船舶画家 上田毅八郎 追悼展」に行き、久しぶりにウォーターラインのプラモデルを作ってから、ハマってしまいました。
 追悼展の売店で、巡洋艦「熊野」と駆逐艦「暁」を購入しまして、その後、航空母艦「隼鷹」を新宿のヨドバシで購入しました。年末年始は、お休みのほとんど全ての時間を費やして、次に何を作ろうかとネットで調べまくっていました。

 プラモデルには3つの楽しみがあります。何を作るか考える、作る、眺めるです。その中で一番楽しいのは、考えているときです。子どもの頃は、買う当てもないのに、おもちゃ屋やプラモデル屋に一日中入り浸ってました。今では、それがネットに代わりました。Amazonのレビューなんてほとんど読み尽くしましたよ。

 それまでの3艦は全てタミヤ製でしたから、他社の製品も、ということで、フジミの巡洋艦「摩耶」、ハセガワの空母「赤城」、アオシマの戦艦「山城」をAmazonで購入しました。時間を見つけては、コツコツと組み立てているところです。

 それから、道具も揃えました。「精密ピンセット」「薄刃ニッパー」そして「流し込みセメント」です。プラモデル代よりも高く付きましたけど、やっぱり道具は大事です。良い道具は、ストレス無しに作業ができますので、組み立てていて本当に楽しいです。
 僕はもうオジさんなんで老眼が入ってますけど、近視ですので眼鏡を外せば手元はハッキリと見えますから。
 ただ、作っているうちに、指先が荒れてきたんです。最初は、抗ガン剤の副反応がぶり返したのかなんて思っていたのですが、どうやら接着剤に含まれている有機溶剤が原因のようです。直接指についたわけではないのですが、揮発した溶剤が悪さをしているみたいです。「流し込みセメント」恐るべしです。

 でも、組み立てているだけです。エッチングパーツはもちろん、塗装すらしていません。いわゆる「素組み」「無塗装」ってやつで、小学生レベルです。
 まあ、いくら精密に作ったところで限界はあるわけで、中途半端に塗装してしまうより、無塗装のプラスチックを心の目で眺めて想いを飛ばしている方が楽しいって・・・ちょっと苦しいですね。でも、タミヤ会長は、「ウォータ-ラインはシルエットを楽しむもの」と発言したそうですよ。これは、最近のディテール重視の流れに完全に逆行しているのですが、しょせん1/700モデルですからね。今ではプラモデル作りなんて、暇なオジさんしかやってませんから、精密モデルが支持されるのも分かりますが、1/350モデルとの棲み分けを考えれば当然のこととも云えます。質より量、たくさん作って並べて楽しむと云う、原点に帰った楽しみ方ってことにしておきます。

 タミヤの製品は、相変わらず組み立てやすかったです。ただ、最近リニューアルをしていないみたいで、20年以上前の製品を未だに売ったりしています。まあ、それでも通用するところがタミヤの凄いところなんですけど。
 上田毅八郎氏の箱絵が多いのが涙ものですね。リニューアルを機に他の作家さんのイラストになっていたものを、最近になって毅八郎氏の作品に戻したなんていうモデルもあるようです。

 巡洋艦「熊野」は、艦これでも人気のキャラで、このブログでもMMD動画を紹介させていただきました。


 箱絵は上田毅八郎氏の作品です。リニューアルが進まないタミヤ製品の中では、比較的新しいもので、パーツのディテールも良かったです。ただ、主砲が砲身まで一体化されていて1個のパーツだったのには、びっくりでしたけど。

 素組・無塗装のプラモデルをブログに載せるというのは、かなり勇気が必要なんですがw


 中学生の頃を思い出します。友人の家に集まって、ウォーターラインを並べて写真を撮ったことがありました。プラモデルを青いセロハンの上に乗せ、脱脂綿を魚雷の航跡や水柱に見立てたりしました。デジカメでバシバシ撮ってパソコンでプリントアウトする今と違って、当時は、フィルム代や現像料、プリント代などを合わせるとかなりの高額になりましたから、1枚1枚を大切に撮ったものです。出来上がった写真は、どれも若干ピンぼけでしたけど、妙なリアル感があって、悦に入ってました。

 現実世界の巡洋艦「熊野」は、太平洋での各海戦に参戦した後に、レイテ沖海戦で被害を受け、修理のため日本への帰路の途中、米航空機の攻撃を受け沈没、戦死者498名とありました。636名いた生存者もその後、陸上部隊に編入されるなどして終戦までに497名が戦死したとされています。
 艦艇が夜戦や混戦の中で撃沈された場合、生存者ゼロなんていうことも多いのですが、「熊野」のように比較的生存者が多い場合も、艦を失った乗組員は、陸上部隊に編入され、ろくな装備も与えられないまま最前線に送られることも多く、帰還率は極めて低かったようです。
 軍艦乗りというプライドを失い、フィリピンのジャングルで戦死した彼らの無念さは、平和な現代に生きる我々には、想像もつきません。


 航空母艦「隼鷹」は、艦これには出てきますが、MMDモデルは無いみたいで、彼女が登場する動画は見つかりませんでした。
 この箱絵も上田毅八郎氏によるものです。発売当時は、傑作キットと云われた「隼鷹」ですが、最近のディテール合戦の中では、若干見劣りするのは否めません。ただ、部品数が少ないぶん、組みやすさという点では、ピカイチです。上級のモデラーさんたちには、自分で手を加える余地が多いと云うことで、意外と評判が良かったりします。

 この艦の最大の特徴である艦橋と煙突をアップで撮しましたw


 現実世界の「隼鷹」は、昭和15年に開催されるはずであった東京オリンピンクに備え、北米航路の豪華客船として建造された「橿原丸」を母体とした改装空母です。改装空母とはいえ、もともと全長200m以上の大型客船。搭載機数は、53機といいますから、攻撃力は中型の正規空母に匹敵するものでした。
 太平洋各地を転戦した「隼鷹」でしたが、最も有名なのは、南太平洋海戦においてアメリカの正規空母「ホーネット」を撃破したことでしょう。「隼鷹」の航空隊には、ミッドウェー海戦で撃沈された空母「加賀」の航空隊員が多数配属されていて、練度・士気ともに高かったと云います。
 しかし、この海戦で日本軍は敵空母を撃破したものの、航空機、特にパイロットの損害はアメリカの数倍という有様でした。日本の攻撃部隊の帰還率は40%以下。一説には、敵の航空機攻撃を恐れ、戦闘機を空母の護衛中心に運用した結果、攻撃部隊に十分な護衛を付けられなかったためと云われています。空母を失ったがパイロットは生還したアメリカ軍、空母は残ったがパイロットを失った日本軍、どちらが真の勝者であったかは明らかです。

 洋上の空母への着艦は、揺れる木の葉の上に降りるようなもので、極めて高度な操縦技術を必要とします。アメリカ軍が不時着機を必死になって探すのは、人命尊重などというレベルの話ではなく、一人前のパイロットを養成するコストを考えれば、当然のことなのです。
 日本機動部隊は、150名近い開戦以来の熟練搭乗員を失い、その後は、補充と消耗を繰り返しながら衰退していきます。戦争後半には、空母があっても航空機が無く、航空機があっても搭乗員がいないという状態で、「隼鷹」も格納庫に物資を積んで、輸送船として任務にあたっていたと云います。やがて艦船を運用する燃料さえなくなり、佐世保港で係留されたまま終戦を迎えることになります。

 「隼鷹」は、係留中にカモフラージュとして、飛行甲板に樹木の鉢を置いていました。ある時、アメリカの航空機が飛来し、遂に見つかったかと思ったそうですが、落ちてきたのは爆弾ではなく1枚のビラ。そこには、「木が枯れかかっているので水やりをするように」と書かれていたそうです。・・・ネット情報ですから。

 タミヤは模型業界を代表するメーカーで、信奉者も多いのですが、アンチも多いようです。まあ、盟主に対して反発するのは、ネットの住人の性ですからね。
 何より、残念なことは、ウォーターラインシリーズに対して、タミヤのやる気の無さが目立つことです。タミヤは他にもいろいろとありますから、この先、売れるかどうかわからないものに、高いお金をかけて新金型を作ろうなんて思わないのでしょう。
 ファンとしては、タミヤが本気を出してくれることを願っているのですが、先細り感が強い模型業界、願いが叶うのは難しそうです。

 さて、次は、何を組み立てましょうか。

2017年2月8日水曜日

中島美嘉「雪の華」feat. ラスボスSACHIKO他

 中島美嘉さんの「雪の華」を取り上げさせていただくのは2回目になります。先日、僕の大好きなボカロPの「The LSC Band」さんが、巡音ルカによるカバーを投稿されました。そこで、これまた、僕の大好きなボカロPさんである「melodylights」さんのカバー作品などと共に、ボーカロイドたちの歌い比べとして、紹介させていただこうと思った次第です。

 では、さっそく、「The LSC Band」さんによる巡音ルカのカバーです。


 え~と、僕には、フィリピーナのように聞こえますが・・・。
 どうしても「ふ」が「つ」に聞こえてしまいます。相変わらずの、片言の日本語で歌っているかのような雰囲気なんですが、この癖を逆手にとって、と云うか、バイリンガルシンガー巡音ルカの特性を面白く生かしていると思います。
 あと、伴奏が素晴らしいですね。とっても聴きやすいし、オルゴールから入るなんて格好良すぎです。オリジナル版の方は、もっと大袈裟な感じで、大きなコンサートホールで中島美嘉さんが歌うのならば、向いてるかも知れませんけど、あの伴奏でボーカロイドに歌わせると埋没しちゃいそうなんで。

 2つめは、「melodylights」さんによる初音ミクのカバーです。


 このテイクを取り上げさせていただくのは、2度目なんですけど、初音ミクを可愛らしく歌わせることに関しては、最高の技術をお持ちだと思います。
 こちらは、ピアノを中心にしたアレンジですが、ささやくような初音ミクの歌唱に合っていると思います。

 3つめは、ボーカロイド「結月ゆかり」のカバー作品です。


 ピアノの伴奏の気合いの入り方が尋常でないですね。打ち込みでなくって、実際に演奏されているんでしょうか。ボーカロイドに歌わせておいて、ピアノで伴奏されているんでしたら、格好いいですよね。僕も「趣味はピアノでの伴奏です」なんて言ってみたいです。
 歌い方がぶっきらぼうに聞こえるのは、ボーカロイドの個性からきているように思います。エコーを効かせていないので、素人っぽい歌唱になっていますが、これはこれで、僕は好きなんですよ。どう頑張っても、中島美嘉さんの歌唱に似せるのは難しいわけですから、ボーカロイドの特性を前面に出して、シンプルに歌わせるというのも方法の1つだと思います。人間の歌でも、素直に歌うことが心を打つってこと、良くありますよね。

 以上3つのボーカロイドによる聴き比べ、いかがだったでしょうか。YouTubeには、他にも「GUMI」や「MIZKI」などによるカバー作品を視聴することができます。

 伴奏も、それぞれ特徴があったと思います。人間用のカラオケ伴奏をそのまま流用するという方法も広く使われているのですが、レコード会社によっては、著作権侵害を訴えるところもあるみたいです。たかか、ボーカロイドなんで、伴奏をちょっとお借りしただけで歌唱ごとミュートにしなくても、って思うのですが、まあ、音楽教室の子どもたちの演奏からも著作権料を取ろうっていうご時世ですからね。
 だからと云うわけではありませんが、ボーカロイドには、やっぱり彼女たちに合った伴奏をつけてあげた方が良いと思います。
 音楽って、聴くことも、もちろん楽しいんですけど、作ったり、演奏したりすれば、さらに楽しいことですし、そういうことが誰でも出来る環境と可能性を提供する、というのがDTMやボーカロイドの役割ですから。

 では、「ラスボス」に登場していただきましょう。ボーカロイド「SACHIKO」によるカバーです。中の人が誰かは、もうお分かりですね。


 凄い唸りと、コブシ回しですね。この歌唱なら人間用のオリジナル伴奏にも負けること無く歌いきれると思いますw。
 「SACHIKO」には、「Sachikobushi」というプラグインが搭載されているそうですけど、だからと云って、最初からこう云う風に歌ってくれる訳ではなくって、溜をつくるなどの調教が行われていると思います。若干やり過ぎ感がありますけど、まあ、中の人もやり過ぎちゃうタイプの方ですから。
 最初聴いたときは、何だコレって感じだったんですけど、聴いていくうちにファンになってしまいました。

 中の人であるラスボスこと「小林幸子」さんは、2012年、事務所のお家騒動で、芸能界引追放の危機を経験します。しかし、「おもいで酒」のヒットまで苦節15年という長く苦しい時代を乗り越えてきたラスボスは、不死身でした。小林さんは、ネットの世界に活路を求め、ネットの住人たちの指示を得ることに成功したのです。元々彼らは、大手広告代理店や大手芸能プロダクション、そして著作権協会に対してはアンチな姿勢を示していましたが、それだけが理由ではないと思います。彼らがラスボスを支持したのは、小林幸子さんの本気の遊び心を感じ取ったからではないでしょうか。
 ラスボス幸子さんは、NHKのFamily Historyに出演していましたが、演歌界の大御所であるのにも関わらず、彼女の飾らない人柄と、旺盛な好奇心、楽天的とも云える明るさに感動してしまいました。「逞しい」というのは、こういう人を云うのだと思います。

 カバー作品を作ってくれるボカロPほど原曲と御本家をリスペクトしている人はいないと思います。でなくては、良い作品は生まれません。そして、僕は、そういうボカロPさんたちをリスペクトしているんです。

2017年2月4日土曜日

「100回のKISS三昧」①~松浦亜弥13年のキセキ~ ファーストステージ編

 YouTubeに置いてある再生リスト「松浦亜弥歌うまいベスト」の18番に「100回のKISS三昧」というのがあります。作ってから3年ほどたちますけど、この3年間での視聴回数は、850回ほどで、全20集の「歌うまいベスト」の中で最も使ってもらえてません。同じような企画の「Love涙色三昧」の方は、5000回を越えているので、随分差がついてしまいました。しかも、850回視聴の中には、僕が使った分がかなりありますから、実質はもっともっと少ないことになります。

 「100回のKISS」は、松浦亜弥さんの4番目のシングル曲です。「LOVE涙色」と「桃色片想い」の両ヒット曲の間、彼女の絶頂期にリリースされたにもかかわらず、世間の知名度はイマイチ。YouTubeにおけるPVの再生回数も、「桃色」や「めっちゃ」が400万回を越えているのに対して、いまだに80万回にも届いていません。
 そんな「100KISS」が、彼女の真の代表曲とされているのは、様々なスタンスをとる彼女の幅広いファンから等しく指示され、また、彼女自身も、デビュー前から2013年のマニアックライブまで、歌い続けてきたという楽曲だからです。

 再生リストは、PVを除くと、10本のライブテイクが年齢順に並んでいます。

 まずは、デビュー前、「あやや」のファーストステージとされているテイクです。彼女を語る上で、このテイクから始めることには、ご異論は無いかと思います。


 マニアックライブ4番のMCで、松浦亜弥さん自身がこのステージについて語っているところがあります。急に出演が決まったので私服で出たとか、歌い終わった後、楽屋で大泣きしたとかです。
 そう云われれば、着ている服は、ステージ衣装にしては、あまりにも地味ですし、髪の毛などは、とりあえず縛って、それなりに見えるようにしただけのように思えます。

 ただ、出演したとされる「Hello! Project 2001 すごいぞ!21世紀」は、単発のイベントでは無く、「中野サンプラザ」「大阪厚生年金会館」「名古屋センチュリーホール」の3会場で8日間、のべ20公演行われたコンサートツアーです。中野の公演は、2001年の1月2日から6日までとなっているんですけど、ファーストステージってこの中のどこになるんでしょうか。
 他にも、初日の公演からセットリストの中に組み込まれていたのかとか、2月に行われた大阪や名古屋の公演にも出演していたのかとか、いろいろと疑問が出てきます。まあ、当時のハロプロファンの方のお話を聞くことができれば解決することではありますが、全てが遠い過去のできごとになるについて、当時の事情を知る方からの証言を得ることが難しくなってきております。

 そもそも、急遽出演が決まったとか、未だ2番の歌詞ができていなかったと云われているのに、楽曲のオケが会場に用意してあるというのも不思議な話です。
 もしかしたら、いきなり歌わされたというのは、本人の感覚だけで、裏では、既に大人たちが準備を進めていたように思えてなりません。
 まあ、確実に云えることは、つんく♂氏の気まぐれの一言で即決定されるほどに、彼が絶対的な権限を持っていたと云うことと、松浦亜弥が破格の特別扱いをされるほどに、お気に入りであったと云うことでしょうか。

 2001年というのは、ハロプロの絶頂期。しかし、単独ライブじゃないとは云え、4日間で10公演ってすごいですね。公演開始が12:00、15:30、19:00とありました。こんなことしていて体とか壊さないかと心配になります。まあ、大箱でまとめて1回なんて云う最近のやり方より、こんな風に中規模のホールで数多くやってくれた方が、ファンとしては嬉しいことだったと思います。

 歌唱に関して云えば、鼻に抜けるような上滑りの歌い方が気にはなります。評価すべき点としては、彼女のステージ度胸でしょうか。極度の緊張感の中でもほとんどピッチを崩ずに歌いきれているのは、歌唱における彼女の地力の強さを物語っています。
 特筆するような歌唱ではないにせよ、歌手「松浦亜弥」を語るに、このようなテイクが残されていることは、貴重で有り嬉しいことです。  

 ただ、動画のコメント欄には、絶賛の言葉が並んでおりますが、これは、松浦亜弥さんが、この後に国民的アイドルへと成長したことを分かっての話です。ハロプロのライブコンサートの中盤で、いきなり出てきた子が、こんな地味な格好で、こんな地味な歌を歌ったところで、当時のハロプロファンにどのくらいのインパクトを与えられたかは疑問です。
 このテイクは、期待の大型新人のお披露目にしては、あまりにも無計画に思えます。ってことは、つんく♂氏の気まぐれでいきなりステージに上げられたというのは、やはり本当のことかもしれません。

 上京してきた松浦亜弥をレコーディングスタジオで歌わせたとき、「橋本慎」氏と「つんく♂」氏が「これで俺たち5年は食える」と抱き合ったというのは有名な話です。僕は、この話を読んだとき、松浦亜弥ほどの逸材に対してたった5年とは何事か、と思いましたが、考えてみれば全くその通りになったわけで、ハロプロ斜陽の元凶としてファンから槍玉にあげられる両氏ですが、先見の明は確かにあったことになります。

 次回からは、松浦亜弥さんの「100回のKISS」13年の歩みを、のんびりと振り返っていこうかと思います。