2017年2月25日土曜日

ウォーターライン製作記③ ~巡洋艦「摩耶」と火垂るの墓~ 精密化へ突き進むフジミ編

 1992年にフジミは静岡模型教材協同組合から脱退し、ウォーターラインシリーズから自社開発分の製品を引き上げ、新たにシーウェイモデルシリーズとして販売を行うこととなった。
 
  フジミ脱退の理由については、よく分かりません。組合を牛耳るタミヤへの反発とも、ウォーターラインシリーズで不人気艦ばかりを押しつけられた不満からとも云われています。この脱退により、フジミは静岡ホビーショー等への参加が不可能になりましたが、その代わりに、売りたい製品、売れそうな製品を自由に開発・販売することができるようになりました。
 また、フジミが抜けたことにより、残された3社は、フジミ担当分の艦船を再配分することになりました。各社は、新しい金型をおこすことになり、それをきっかけに他の製品のリニューアルも行われました。フジミの脱退が、停滞していたリニューアルを進める一因になったというのは、皮肉なことではあります。


 フジミの昔のマークです。僕が子どもの時は、これでした。舵輪がデザインされていることからも、船舶模型に力を入れていたことが分かります。

 脱退当初は不評だったフジミのモデルも、現在では高く評価されています。Amazonのレビューの評判もとても高いんです。評価されている点は、何と云っても、その精密さです。1/350モデルの設計をそのまま1/700に採用したといわれている細かさにあります。機銃弾の格納箱みたいな、今までだったら省略されていたような物まで表現されています。部品もとても細かくって、精密ピンセットがなければ絶対に組み立てられません。
 ディテールに拘った製品は、多くのモデラーの支持を得ました。今の子どもはプラモデルなんて買わないでしょうから、プラモデルを購入する年令層が高くなっています。このことが、組み立て易さより、作り応えのあるものが好まれる理由なのでしょう。

 ただ、僕としまては、フジミのモデルは、あまり評価できませんです。フジミが悪いというよりも、自分に合わないってことでしょうか。

 まず、素材であるプラスチィックが硬いように思います。ですからニッパーで切り離したときに切断面が白くなってしまうんですよね。普通のモデラーさんなら塗装しますから関係ないかもしれませんが、素組み派の自分にとっては、ちょっとテンションが下がる事態です。
 それから、部品を分割しすぎのように思います。精密であることと部品数が多いことは必ずしもイコールとは思いません。一体成形してしまった方が良いんじゃないかってものもあるように思います。
 しかも、1つ1つの部品がゴマ粒みたいになってますから、結局、成形が追いついていないんですよね。もう、部品と云うより、プラスティックのかけらです。これを接着剤で付けるわけですから、どうしてもセメントがはみ出たりして、汚れてしまいます。
 これを作り応えがあると感じるか、無駄な労力と感じるかの違いなんですけど、僕的には、要らぬ作業のように思えてしまいます。
ですから、モデラーさんたちには、高評価かもしれませんけど、僕は、あまり好きになれなかったです。

 でも、頑張って作りましたよ。ゴテゴテしているのは、対空能力強化後の姿だからです。ハリネズミのように機銃を増設していますが、ここまでやってしまうと、勇姿というよりも、米軍の航空機攻撃を恐れる憐れな姿に見てしまいます。


 同じ巡洋艦の熊野(奥)と並べてみました。建造されたのは、摩耶の方が古いのですが、熊野が海戦時のモデルであるのに対して、摩耶は改装後の姿になっています。
 それから、フジミとタミヤの雰囲気の違いも感じていただけるのではないかと思います。


 箱絵は、「高荷義之」氏によるものです。高荷氏は、このブログでも取り上げさせていただいた、ボックスアートの神「小松崎茂」氏に師事していたイラストレーターで、フジミの製品の箱絵を多く担当しています。精密イラストというよりも迫力満点の絵画っていう感じで、古き良き昭和のイメージです。上田毅八郎氏の作風と好対照なところも面白いです。
 高荷氏は、「風の谷のナウシカ」のポスター用イラストを担当したそうですが、云われれば確かに同じ作風で納得しました。って云うか、あれって宮崎氏自身が描いたのだと思ってました。


 「摩耶」をもう1つ有名にしているのは、アニメ映画「火垂るの墓」で、主人公の清太の父が乗っていた艦が摩耶とされていることでしょうか。

 「火垂るの墓」の原作者「野坂昭如」氏は、少年時代神戸に住んでいました。「摩耶」は、神戸造船所で建造され、艦名も神戸市の摩耶山にちなんで付けられました。1930年の進水式には、3万人の群集が集まったそうですから、神戸の人たちにとっては、なじみ深い軍艦だったようです。アニメでは、華やかな観艦式の場面が登場しますが、1936年には実際に神戸沖で観艦式が開かれています。
 物語に登場する軍艦を「摩耶」に設定したのは、野坂氏の実体験が元になっているのは、間違いないようです。

 清太の父は海軍大尉という設定だそうです。父が乗っていた摩耶は、重巡洋艦ですから、艦長は大佐です。副長・航海長が中佐、砲術長あたりが少佐だと思いますから、大尉と云うと、水雷長とか、副航海長あたりでしょうか。巡洋艦には約1000人の兵が乗っていますが、大尉は、巡洋艦ではナンバー5くらいの序列になります。

 アニメの制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲氏が担当しました。宮崎駿先生は、海軍大尉の子息ともなれば、様々な援助が受けられるはずで、いくら戦後の混乱期とはいえ、栄養失調で死ぬなど有り得ないと、噛みついたそうです。
 さらに、「摩耶」が撃沈されたのは、レイテ沖海戦の時で、終戦の1年以上前のことです。救助され、他の部隊に編入された後に戦死ということも考えられますが、士官の戦死というのは大きな出来事ですから、海軍大尉である父親の戦死を、最後まで知らされないというのも不自然です。
 
 まあ、「清太の父親は海軍大尉で巡洋艦摩耶に乗っていて戦死した」という設定自体に無理があるようです。「火垂るの墓」は、野坂氏の実体験が元になっているとはいえ、かなり創作性の高い作品ですから、何となく「摩耶」にした程度のことなのでしょう。

 現実世界での巡洋艦「摩耶」は、高雄型の4番艦として建造されました。高雄型は、城郭のようにそびえ立つ艦橋が特徴で、レイテ沖海戦では、米潜水艦が戦艦と間違えたほどです。摩耶は、ラバウル空襲で大破し、その損傷修理の際に対空能力を強化し、連装高角砲6基、3連装機銃13基と戦艦並みの対空能力を持つにいたります。
 「摩耶」は、レイテ作戦で、主力である栗田艦隊の一艦として出撃しましたが、米潜水艦の攻撃により、4本の魚雷を受けて沈没しました。この時は、2隻の米潜水艦の攻撃で、日本の重巡洋艦が一度に3隻も撃沈されるという有様でした。

 実は、戦争後半になると、航空機よりも潜水艦による被害が目立つようになります。日本の対潜水艦能力が極めて貧弱だったことに加えて、アメリカ軍は日本軍の暗号を解読し、艦隊の行動先に潜水艦を待ち伏せさせていましたから、損害は増える一方でした。

 対空能力を強化したのに潜水艦に撃沈されるというのは、何とも皮肉なことです。摩耶は被雷からわずか8分で沈没し、艦長以下336名が戦死しました。救助された乗組員は、戦艦武蔵に移乗しますが、その武蔵も翌日に撃沈、副長以下162名が戦死します。摩耶の乗組員は、二日連続で撃沈を経験したことになります。それでも、生存者は600名以上いて、内地に帰っていますので、清太の父が戦死していたとしても、なんらかの連絡はされているはずですって、もはや無用なツッコミでしたね。

 戦争映画では、艦が沈む時に艦長も運命を共にするみたいなシーンがよくあって、摩耶の艦長も撃沈時に戦死しています。
 ただ、これは、艦長が修理担当の兵とギリギリまで沈没を回避する努力をしていた結果、避難が間に合わなくなることが多かったからで、避難できたのにあえて残った艦長というのは、それほど多くないとのことです。海軍からも、艦長は生還を心がけるようにという通達が出ていたそうです。現代でも、艦長は最後に避難するものという風潮がありますけど、だからといって、運命を共にするってわけでは無いですからね。
 逆に、副長は生存した乗組員への指揮と、軍への報告のため、真っ先に避難するのが慣わしだったそうです。映画のシーンによくある、副長が「私もお供します。」なんて云うのは有り得ない話で、実際、摩耶の副長も避難していて、移乗した武蔵で生存した乗組員を指揮しています。

 日本海軍は、イギリス海軍をお手本としていましたから、多少は合理的なところもあったみたいです。

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