2017年5月6日土曜日

ウォーターライン製作記⑦ ~軽巡洋艦「阿武隈」とキスカ島撤退作戦~

 巡洋艦「阿武隈」は、大正時代に盛んに建造された5500トン級軽巡洋艦の長良型6番艦です。この5500トン級軽巡洋艦は、イギリス海軍の軽巡洋艦をモデルに設計された艦で、当時としては、画期的な性能を持つ日本海軍自慢の巡洋艦でした。
 太平洋戦争開戦時には、既に艦齢が20年を越えていて、老朽艦となっていましたが、新型艦の建造が遅れるなか、護衛、輸送任務の中核となって活躍しました。「大和」に代表される最新型の戦艦などが、その性能を十分に発揮できなかったのに対して、太平洋戦争の戦線を支えていたのは、彼女たちのような旧式の補助艦艇だったのです。最前線での運用が続いた結果、14隻あった同型艦は、そのほとんどが戦没しています。


 5500トン級軽巡洋艦の特徴は、何と云っても、レトロ感溢れる、単装砲と3本煙突です。


 タミヤ製の「阿武隈」、真珠湾作戦時のモデルです。製品化から10年、部品のディテールは、他社の新金型製品と比べると見劣りがしますが、組み立てやすさ、部品のはまり具合は、さすがタミヤ、他社の追随を許しません。ピンセットでつまんだ微小部品が指定された場所にビシッと嵌まった時の快感は堪えられませんです。
 「阿武隈」は、他の長良型と艦首の形状が違うので、プラモデルとして製品化するには、別部品が必要になります。そのため、第一水雷戦隊の旗艦でありながら、ウォーターラインのラインナップには、長い間、入っていませんでした。「阿武隈」の発売は、多くのファンが待ち望んでいたことでした。



 5500トン級軽巡洋艦って、古めかしいし、全然強くなさそうなんで、好みではなかったんですけど、大人になってこの艦を格好良いと思えるようになりました。
 戦争が激しくなるにつれて、どの艦艇でも、機銃などの対空装備が強化されていきました。子どもの頃は、対空機銃や高射砲が増設されたハリネズミのような艦形を格好いいと思っていましたが、最近は、米航空機に怯える憐れな姿に見えてしまいます。軍艦マニアは、開戦前のシンプルな姿を好む傾向がありますが、何となく分かるような気がします。
 
 で、この娘が、「艦これ」の「阿武隈」です。大変な人気キャラです。「阿武隈」の動画は、「MMD艦これ」の中でも傑作揃いなんですけど、これは特にお薦めです。楽曲、モーション、カメラワークとか最高だと思いますよ。


  可愛いでしょ。こんなアイドルが現実世界にいてくれたら、云うことないんですけどね。

 現実世界の軽巡洋艦「阿武隈」は、第1水雷戦隊の旗艦として、真珠湾攻撃に向かう機動部隊を直衛した他、ビスマルク諸島攻略作戦、ジャワ攻略作戦、インド洋作戦などに参戦して日本軍の快進撃を支えます。その後は、北太平洋を担当する第5艦隊に編入され、アリューシャン攻略作戦では、攻撃部隊の旗艦を務めました。
 
 数多くの作戦に参加した「阿武隈」ですが、有名なのは、1943年7月に旗艦として参戦した「キスカ島撤退作戦」でしょう。

 この作戦は、東宝により、三船敏郎主演「太平洋奇跡の作戦 キスカ」というタイトルで映画化されました。戦争映画ではありますが、人命尊重の撤退作戦であること、数々の困難を乗り越えてのハッピーエンドということで、娯楽性も高く、かなりの人気作品だったようです。僕も子供の時にテレビの映画劇場で放送されたものを見た記憶があります。

 確か、撤退作戦の参謀を潜水艦でキスカ島に送るシーンがありました。空襲を受けて沈む潜水艦に向かって敬礼するシーンが印象的でしたけど、何で助けに行かないんだろうって、子ども心に思った覚えがあります。
 後は、駆逐艦隊が島の岩礁帯を進んで行くシーンを覚えています。見張りのシーンはセットでしょうけど、駆逐艦が進んで行くところは、円谷プロの特撮だそうです。云われてみれば、怪獣映画で見慣れた雰囲気だったように思います。


 名場面集のようです。P-38飛来のシーン(艦載機でない戦闘機が飛来したのは近くに飛行場ができたということ、つまり敵の侵攻が近い)とか、島の守備隊が救援にきた駆逐艦の数を数えるシーン(泣けます)とか、いろいろと思い出しました。まあ、それだけ印象的な映画だったってことでしょう。戦争賛美とか反戦とか関係なく、現代の世に再放送しても十分鑑賞に耐えうる名作だと思います。

 作戦の詳細について語り出すとキリが無いのですが、霧が晴れたので突入をあきらめ、帰投する時に司令官「木村少将」が語ったと伝わる「帰ろう。帰れば、また来られるから。」は、名言となっています。
 勇ましく突入して、華々しく散ることが美徳とされた時代です。貴重な燃料を消費したあげく、手ぶらでノコノコ帰ってきたため、凄いバッシングを受けたと云います。
 上層部のご機嫌ばかりを気にする管理職が多いのは、今も昔も変わらないようですが、願わくば、このような上司の下で働きたいものです。

 そして、再びチャンスが訪れます。気象台の「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を受けて、救援部隊は22日に再出発します。
 救援部隊がここまで霧にこだわるのは、濃霧の中では、航空機の攻撃を受けなくて済むからです。しかし、海上封鎖をしている米艦隊のレーダーに捕捉されてしまったら、砲弾は霧の中でも飛んできます。救援後に米艦隊と遭遇した場合、5千人以上の島の守備隊だけでなく、救援部隊の乗組員までもが危うくなるわけで、この作戦がいかに危険なものであったかが分かります。
 この作戦は、「ケ号作戦」と名付けられていました。「ケ」は「乾坤一擲」の「ケ」、つまり、「成功しないかも作戦」ってことです。

 対する米艦隊の行動は、以下の通りです。

 25日:海上封鎖をしていた米艦隊のレーダーが濃霧の中に船影をとらえる。
     直ちにレーダー射撃を開始、約40分後に反応は消失。
 28日:敵艦隊を撃滅したと確信した米艦隊は弾薬補給のため後退。
 30日:補給が終わったアメリカ艦隊は封鎖を再開。

 救援部隊が突入したのは29日。たまたま、それも1日だけ、米艦隊が海上封鎖を解いていた日でした。米艦隊が海上封鎖を解いたのは、レーダーの誤反応により、砲弾を撃ち尽くしてしまったからです。これが、この作戦が奇跡と呼ばれている所以です。
 もちろん、闇雲に突っ込んだところで奇跡など起きるはずもありませんから、木村少将の冷静な判断が奇跡を呼び込んだと云ったところでしょうか。
 それから、撤収作業をスムーズに完了させるために、兵士に歩兵銃を捨てさせていたことが分かっています。天皇陛下から賜った銃を捨てる、などと云うのは、当時の常識からは有り得ない話です。他にも、撤収に使った「大発動艇」を遺棄したりと、兵士の命よりも兵器を大事にする風潮のあった当時の日本軍において、異例の行動をとっています。

 日本軍が撤退したことを知らない米軍は、無人となった島に大規模な艦砲射撃と空爆を行い、3万5千人もの大部隊を上陸させます。米兵は日本軍が一向に攻撃を仕掛けてこないことで疑心暗鬼に陥り、極度の緊張状態の中で同士討ちをしてしまう事故が多発、死傷者は100人を越えたと云います。
 米艦隊が、レーダーのゴーストに向かって弾薬が底をつくまで撃ち続けたりと、見えない敵ほど怖いものは無いってことでしょうか。

 キスカ島撤退作戦は、太平洋戦争における数少ない美談とされています。このままでは守備隊は全滅してしまう、だから、何が何でも助けに行かなければ、という論理は、一見人道的にも思えます。しかし、全ては、結果オーライであって、作戦そのものは、無謀の一言に尽きます。
 この後、戦局は、さらに悪化の一途をたどり、太平洋の各地で守備隊が「全滅」していきました。撤退作戦を遂行する戦力すら失ってしまったなかで、「降伏」「投降」という選択肢が無い部隊は「見殺し」にされていきました。そして、軍の上層部は、これを「玉砕」と名付けたのです。

 巡洋艦「阿武隈」は、その後、対空兵装を強化するなどの改装をうけ、レイテ沖海戦に参加します。1944年10月25日、魚雷艇群の攻撃を受け、魚雷1本が命中して損傷。翌26日、帰港中にB-24爆撃機30機の空襲に遭い、直撃弾3発、至近弾4発を受け、さらに積んでいた魚雷が誘爆して撃沈。戦死者は512名とあります。

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