2017年6月25日日曜日

松浦亜弥さん31才の誕生日に ~LIVE at COTTON CLUB~

 40才を越えたあたりから、自分の年齢が分からなくなった。名簿や申請書に年齢を書くときに当てずっぽうで書くようになり、間違うことも多かった。誕生日が来ても、誰も祝ってくれないのだから致し方ない。もっとも、最近は、定年まであと何年、って感じになってきて、そこから逆算するから間違えることは無くなってしまった。

 で、松浦亜弥さんは、今日で31才になるらしい。自分の印象からすれば、30才の時は、特に何とも思わなかったが、31才になったときは、それなりに考えるところがあった。30代になれば、仕事ができない自分が情けなくもなるし、失敗すると恥ずかしいと思うし、結婚というプレッシャーもかかってくる。
 「三十而立」って昔の偉い人は言ったらしい。大人というのは、30代から始まるし、30代というのは、31から始まるように思う。


 本格的に30代に突入した松浦亜弥さんは、何を考えているのだろう。確か、お子さんは、3つになるはずだ。第2子を考えるか、それとも仕事への復帰を考えるかの分岐の頃である。でも、それは、一般人の思考であって、彼女が何をどう考えているのかなんて想像もつかない。


 ファンというのは、タレントとは独立した存在でもある。
 ジョン・レノンは、もうこの世にはいないけれど彼のファンは存在するし、そのファンの大部分は、彼のライブになんて行ったこともないはずだ。子どもの時、友人に借りた「ヘイ・ジュード」のシングル盤に衝撃を受けたけれど、ビートルズは、もう解散した後だった。

 僕らの存在は、彼女の動向に左右されるものでは無く、自らの意思によるものだ。


 勿論、僕だって、ファンの端くれとして、再び歌ってくれることを希望している。松浦亜弥って、こんなに凄いんだって、世間をあっと云わせて欲しいし、僕は、ずっと前から知っていたんだって、周りの奴らに自慢もしたい。大人になった彼女が、どんな歌唱を披露してくれるか、楽しみにもしている。
 
 期待はしないけれど、絶望もしていない。彼女の動向は、彼女の意思によるモノだけど、僕らの存在は無意味では無いはずだからだ。

2017年6月17日土曜日

遠州・湖北五山「龍潭寺」 №184と「おんな城主 直虎」

 NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」が意外と面白い。

 視聴率もマズマズのようです。女性が主人公の大河ドラマは苦戦することが多いそうですが、相手役に「髙橋一生」氏、チョイ役で「菅田将暉」氏、人気子役の「寺田心」君など、大河ドラマならではの贅沢な俳優陣と、史実がほとんど知られていないために、伏線が効果的に機能、新鮮な気持ちでハラハラドキドキできるストーリー展開などが、ウケている要因のようです。
 歴史ファンからは、髙橋一生氏演ずる「小野但馬守」の描き方について、この路線で大丈夫なの?と危惧する意見もあるようですが、だいたい、この期に及んでも、ドラマの主人公が男だったか女だったか論争されているくらいですから、その他の登場人物の描き方など何でも有りって感じです。
 勉強になったといえば「今川氏は、桶狭間の後、無為無策の内に簡単に滅んでしまった」という誤ったイメージを変えてくれたことでしょうか。まあ、せっかくマイナーな人物が主人公なんですから、下手に検索して、ネタバレに遭遇することの無いように心がけたいものです。


 で、今回紹介させていただく「龍潭寺」は、小林薫氏が演ずる「南渓瑞聞」が住職を務めた、井伊家の菩提寺になります。
 南渓は、井伊家の出身で、井伊家の危機を救った名僧として知られています。ドラマで「直虎」が行ったことになっている施策は、実際には彼によるものだろう、と云われております。
 南渓和尚が抱っこしているのが、ネットで話題の茶トラ猫「にゃんけい」。動物プロダクションにも所属している、れっきとした俳優猫で、オス・メス2匹でのダブルキャストだそうですよ。


 実は、恥ずかしながら、毎回ドラマに登場し、重要な舞台になっている龍潭寺が、湖北五山の龍潭寺であることに気づいたのは、しばらく経ってからのことでした。といいますのも、ドラマの龍潭寺は、いかにも山寺の雰囲気ですが、僕の知っている龍潭寺は、丘の麓にあったようにイメージしていたからです。
 「井伊谷」は、南アルプスに連なる遠州山地を背にして、広大な遠州平野を臨む、平安時代より拓けた地であって、決して、人里離れた山奥の盆地ではありません。

 ドローンによって撮影された映像です。最初に写っているは、ドラマでも度々登場する「出生の井戸」のようです。


 大河ドラマが始まってからは、観光バスが連なって来るなど、龍潭寺も拝観者が急増し、日によっては、拝観待ちになることもあるそうです。

  湖北五山とは、浜名湖の北側にある「初山宝林寺」「龍潭寺」「方広寺」「摩訶耶寺」「大福寺」五ヶ寺の総称です。この五ヶ寺は、どれも由緒正しく、貴重な文化財を所有する立派なお寺さんですが、創建時期や宗派も全く異なっていて、互いに関係は無く、湖北五山という名称も、観光の拠点作りのために、最近になって付けられたとのことでした。
 しかし、五山の名称が商業的に作られたものだとしても、それぞれ個性があって、佇まいの異なるお寺さんを巡るのは、楽しいものです。五ヶ寺を一度に訪れるのが厳しいのであれば、「龍潭寺」「方広寺」「摩訶耶寺」の三ヶ寺だけでも巡ってみてはいかがでしょうか。


 御朱印帳の日付を見ますと、五山を訪ねたのは、平成24年の2月でした。一日かけて五つのお寺さんを巡って、最後に浜松の「石松餃子」にでも行ったのだと思います。


 仏像巡りの観点から云うと、禅宗の龍潭寺は、五ヶ寺の中では、特に見るべきものも無いお寺さんでした。本堂の脇に、江戸時代作の丈六釈迦如来像が客仏として祀られていましたが、そのくらいであったと思います。
 ただし、見るべきものが乏しいというのは、あくまでも仏像に関してであって、いかにも禅宗の寺院らしい落ち着いた佇まいや、小堀遠州作と伝わる庭園、井伊家歴代当主の墓所など、遠州を代表する拝観寺院であることに違いはありません。
 ただ、お庭については、写真も撮りましたし、覚えているのですが、墓所については、どうであったか全く記憶がありません。今思えば、もっと心して拝観すべきであったと反省しております。



さて、拝観を終えて、帰ろうとしたとき、靴を取り間違えられていることに気づきました。靴箱に似たような黒いスニーカーが残っていましたから、どうやらこの靴の持ち主が間違えたようです。代わりにその靴を履いて帰っても良かったのですが、何となく気が引けたので、お寺の奥さんに事情を話したら、寺のサンダルを貸してくれました。それから、近くのホームセンターへの道を教えてもらって靴を買い、サンダルを返すためにもう一度寺に戻りました。
 奥さんは、僕が戻ってきたことに驚いていました。まさか、サンダルを返しに来るとは思っていなかったみたいです。自分としては、お寺のサンダルを借りたままにしているのは、間違えられた靴を履く以上に気が引けただけのことだったのですが、善人扱いされてしまって妙な気分でしたよ。


 ドラマでは龍潭寺の僧侶として、市原隼人氏演ずる「傑山」、小松和重氏演ずる「昊天」などが出てきます。どちらも実在の僧侶のようで、武勇にも優れ、井伊直政に従って参戦したという記録もあるようです。
 井伊家が彦根藩主となったとき、彦根にも龍潭寺をつくります。開山は昊天宗建。やはり立派なお寺さんで、特にお庭が有名のようです。僕は、彦根には2度行きましたが、こちらの龍潭寺には、まだお参りしておりません。
 
 ドラマも佳境に入ってきました。とりあえずの関心は、髙橋一生氏演ずる小野但馬守について、どのようにオチを付けてくれるかってところでしょうか。

2017年6月13日火曜日

幻の枇杷(びわ)

 枇杷の季節になった。僕の住んでいる町には、家の庭先とか、畑の一角とか、公園の片隅とか、思わぬところに枇杷の木があって、たわわに実をつけている。枇杷の木は、実を食べた後の種を埋めておくなどすれば、実生で簡単に増やせるそうだから、そうやって増えていったのだろう。
 ただ、その実は、いわゆる「琵琶」の形をしている一般的な枇杷と違って、丸くて小さい。これは、「白枇杷」と呼ばれているもので、伊豆半島で栽培されていた品種だ。


 僕が生まれた村は、かつて「白枇杷」の栽培が盛んだった。今は、限られた農園でしか栽培されていないとのことだが、僕が子どもの頃は、村には「枇杷山」と呼ばれている果樹畑があちらこちらにあった。

 枇杷の収穫は短期決戦だ。枇杷山を所有しているのは、本家と呼ばれている、地主クラスの家だった。季節になると、村の女性たちは、枇杷山へ収穫の手伝いに行った。
 僕の祖母も、朝早くから日の暮れる頃まで、枇杷山で働いていた。そして、ザルいっぱいの枇杷を持って帰ってきた。たぶん、虫食いや傷みがあって市場に出せないやつをもらってきたんだと思う。今だったら、ジャムなどの加工用にまわすのだろうけど、当時は、そんなことを考えもしなかったのだろう。
 僕らは、ザルの周りに群がって枇杷を食べた。腹一杯、飯が食えなくなるくらい食べまくった。で、次の日になると、また、ザルいっぱいの枇杷を持ってきた。この季節は、村のどの家にも枇杷が置いてあって、食べ放題だった。冬、こたつに入って蜜柑を食べるような感覚で枇杷を食べていた。
 枇杷の実には渋があって、たくさん食べると、指先が茶色に染まった。この渋は、ちょっとやそっと手を洗っただけではとれなかったから、村の子どもたちは、この時期、みんな指先を茶色に染めていた。
 枇杷という果物が、高級で、腹一杯食べるようなものでは無いということを知ったのは、大人になってからである。

 幼いときの記憶ではあるが、枇杷山に遊びに行ったことがある。山には、収穫小屋(と云っても普通の平屋の一軒家くらいあったと思う)があって、枇杷の絵が描かれた紙を貼った木箱が積まれていたのを覚えている。
 枇杷山は、果樹園というよりは、自然林に近かった。枇杷の木は人々が植えたのであろうが、整然と並んでいるわけでは無くて、山をめぐり、高木に梯子をかけて、実を収穫していたように思う。

 「白枇杷」は、一般的な「茂木枇杷」などと比べて、実が丸く小さいのが特徴である。ところが、実が小さいのにかかわらず、種の大きさだけは他の枇杷と同じときている。ただでさえ、枇杷は食べる部分が少ないのに、白枇杷はさらに食べる部分が少ない。枇杷の可食率は65%程度と云われているが、白枇杷は50%も無いと思う。実が薄いので缶詰などに加工することもできない。さらに、白枇杷の実は柔らかく傷つきやすいので、長距離の輸送に耐えられないし、日持ちも極めて悪かった。
 そんな厄介な品種であるのにもかかわらず、白枇杷が珍重される理由は、その味の良さにあった。濃くて上品な甘さは、他品種とは別物と云えるほど美味しい。嘘では無いが、こればかりは実際に食べてもらわないと理解していただけないだろう。
 ただ、欠点が1つあった。白枇杷は、味のバラツキが極めて大きいのだ。もの凄く美味しい実があると思えば、ほとんど味のしないものもあって、それが、外見からは全く判別できないのである。まさにロシアンルーレット状態。白枇杷を食べていると、時々「うおー」という声が出る。これは、当たりを引いた時の、思わず発する至福の叫びだ。

 そんな枇杷の中に、比較的実が大きくて、いわゆる琵琶の形をしたものが混じっていることがあって、これは「ツクモ」と呼ばれていた。果肉は厚めで赤っぽく、味は大味で、可も無く不可も無くといったところだろうか。大人たちの話によると「田中枇杷」との交配によってできた雑種だという。この交配が人為的なものか、自然交配なのか、僕は知らない。が、みんなは、この「ツクモ」を蔑んでいた。村の人たちにとっては、「白枇杷」こそが枇杷であり、誇りだった。
 でも、僕は、この「ツクモ」が好きだった。肉厚で、何より、味にハズレが無いのが良かった。僕が「ツクモが好きだ」と云うと、変わり者あつかいされた。
 
 やがて、食生活が豊かになり、様々な果実が流通するようになって、枇杷の生産量は減少していく。収穫期間が短く、多くの人手を必要とし、デリケートな「白枇杷」は、市場に流通させるには、あまりにも不向きな品種だった。
 村では、枇杷を使って羊羹を作ったり、ワインを作ったりしたようだが、成功したという話は聞いていない。結局、生食以上のものなど有り得なかったのだろう。
 だが、最も深刻な問題は、村の急激な過疎化と高齢化だった。管理する人手の無い枇杷山は、次々と荒廃していった。

 今、伊豆の「白枇杷」は、生産量が極めて少なく、その全てが観光農園と特売所で消費されてしまうので、一般の市場に出てくることは無いという。「初夏の宝石」とか「幻の果実」とか云われているそうだ。観光農園の枇杷狩りは、40分で1500円だと聞いた。
 「以前は枇杷を腹一杯食べたものだ」なんていう話は、完全な昔話になった。もっとも、今ではそんな話をする者もいないだろうし、聞いてくれる者もいないだろう。


 実は、ここだけの話、現在「白枇杷」として売られている品の中には、かなりの比率で「ツクモ」が入っている。恐らく、純粋な白枇杷だけでは、出荷量を確保できないのだろう。でも、これを偽装表示だとか詐欺だとか云う気は無い。「ツクモ」だって僕の故郷が誇る枇杷に変わりないからだ。

 ただ、年寄りたちが生きていれば、何と云うだろうか。

2017年6月10日土曜日

小田さくら、時は来たれり! ~「dearest.」「中央改札」「部屋とYシャツと私」~

 ちょうど2年前、「小田さくら」さんのことを記事にさせていただきました。その時の内容を要約いたしますと、『モーニング娘にいたところで、いいように使われて、センターとかになれるわけでもない。18才くらいまでは、モー娘で頑張るにしても、是非とも10代の内に、ソロに転向して欲しい。』って感じでした。

 そして彼女は18才になりました。

 「小田さくら」さんは、ハロプロのタレントさんの中では、抜群の歌唱力の持ち主ということになっています。ファンイベント「さくらのしらべ」では、ソロで様々な曲を披露していて、松浦亜弥さんの持ち歌も精力的にカバーしているようです。YouTubeにアップされているものでは、「dearest.」とか、「気がつけばあなた」「奇跡の香りダンス」「ずっと好きでいいですか」などがあります。最近のものでは、「引っ越せない気持ち」の音源もアップされています。
 
 ただ、松浦亜弥さんのカバーとなれば、御本家と否応なしに比べてしまうわけで、結局「あやや」の曲を「あやや」以上に歌える子はいないという、悲しい現実とありきたりな結論に至ってしまいます。
 にもかかわらず、僕は、「小田さくら」さんを良いと思います。何故か、彼女の動画を繰り返し見てしまいます。


 この時、デビューから1年後、14才くらいでしょうか。年齢によるハンディを別にしても、松浦亜弥さんとは、比ぶべくもありません。
 正直云って、彼女より可愛いアイドルはたくさんいますし、歌唱に関しても、裏声から地声に戻ってくるところなどは、音程もかなり不安定です。ハロプロの歌手の中には、もっと上手にカバーをしている子もいると思います。
 でも、その至らなさを不快に感じさせない何かを感じます。完璧で無いところが不思議と魅力になっているって云うか、全力でぶつかって玉砕しているようなこのテイクが、僕は好きなんです。まあ、それをファンというのだと云われてしまえばそれまでですが。

 次は、「中央改札」です。昨年のテイクのようですから、17才ってことでしょうか。


 だいぶ、お姉さんっぽくなってます。歌も安心して聴いてられます。マニアックライブ5番の松浦亜弥さんとの勝負だったら、いい線いってるように思います。

 アイドル歌手と呼ばれるからには、しっかり歌うことと、可愛く魅せることの共立は、誰もが目指すことでしょうが、どちらに軸足を置くかは、タレントそれぞれです。当然「小田さくら」さんは、しっかり歌うことに軸足をのせていると思います。それは、周囲の期待もあるでしょうし、自らのプライドからきているのかもしれません。
 しかし、「モーニング娘」というグループアイドルにおける彼女の存在感って、どれほどのものなんでしょうか。集団でダンスをして、僅かばかりの歌割りをもらって、それから・・・。
 
 彼女のテーマソングみたいになっている「Be Alive」です。この曲によるオーディション風景は視聴数も120万回を越えている有名動画ですが、歌っているシーンは1分ほどしかありませんでした。「さくらのしらべ」がDVD化されたと云うことで、フルコーラスのテイクがYouTubeにアップされていました。


 デビュー直後みたいですね。だいぶ幼く見えます。オジさんが此の手の動画を見るのって犯罪にならないのか、ちょっと心配になってきました。
 この楽曲は、ソロで歌うには不向きなんですが、それなりに歌えていると思います。彼女、ホントは一人で歌いたいんじゃないかなと思います。そういえば、松浦亜弥さんも、ユニットやデュエットの曲をソロで歌い直したがるところがありました。

 で、僕は、再び確信しました。

 遂に時は来たれり。「小田さくら」は、モーニング娘を卒業し、おデコを隠し、ソロデビューするべきです。そして、高田みづえ以来、40年近く空席のままの「アイドル系演歌歌手」として君臨して欲しいです。
 別に「ド演歌」を歌えと言っているのではありません。「dearest.」でいいんです。「中央改札」でいいんです。日本語で日本の歌を歌ってくれればいいんです。

 きっと、世の爺さん婆さんたちは、孫を見るように、彼女を応援してくれると思います。
 
 「部屋とYシャツと私」でお終いにします。
 彼女の良いところは、普通に歌ってくれるところです。無理に個性的であろうとしない。誤魔化そうとしない分、未熟さも出てしまう。でも、それが不快に感じないのは、そこに「素直さ」があるからだと思います。

 そして何より、歌うことを彼女自身が楽しんでいる。かつて「あやや」がそうであったように。