2018年3月24日土曜日

ウォーターライン製作記 ⑪ ~駆逐艦「夕雲」とガダルカナル撤退作戦

今回取り上げさせていただく、駆逐艦「夕雲」です。


ハセガワの駆逐艦「夕雲」です。
いつもながらの、素組・無塗装でスミマセン。
写真では分からないかもしれませんが、新金型だけあって、ディテールまで再現されています。

箱絵は「加藤単駆郎」氏です。


いつもながらの、素晴らしいアングルです。
4月には個展、6月には画集が出るそうです。

夕雲型駆逐艦一番艦「夕雲」は艦隊型駆逐艦「陽炎」型の改良型として、1941年12月に竣工しました。
夕雲型は、最終的には19隻が建造されますが、開戦前に竣工していたのは、一番艦の「夕雲」だけで、
(それも開戦のわずか三日前)他の艦は、全て戦時中に竣工することになりました。
夕雲型の各艦が竣工する頃、戦局は激しい消耗戦となっていました。
そのため、彼女たちは、訓練もままならないまま、直ちにガダルカナル島などの最前線に送られ、
19隻あった同型艦は、終戦までに全て失われてしまいました。
特に、ルンガ沖夜戦で、米巡洋艦隊の集中攻撃を受け撃沈した6番艦「高波」の艦歴は、
わずか3ヶ月でした。

「夕雲」は、機動部隊に所属して、
「ミッドウェー作戦」「第二次ソロモン海戦」「南太平洋海戦」などに参戦し、
その後は、同型艦と共に、ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦に従事します。
それは、制空権の失われた海域での、決死の輸送作戦でした。

本来、物資を運ぶのは輸送船の役割でしたが、制空権の無い海域では、輸送船は次々と撃沈され、
ガダルカナル島の将兵は、全く補給を受けられないという状況に陥っていました。
このため、高速の駆逐艦に物資を積み込み、夜陰に紛れて輸送するという作戦が実施されます。
搭載している魚雷を降ろして、空けたスペースに物資を積み込み、
夜間に行動することから、「鼠輸送」と揶揄された作戦でした。

一列になって高速で航行する「鼠輸送」の駆逐艦隊、連合軍側の呼称は「Tokyo Express」。


駆逐艦には、荷揚げ用のクレーンなどありませんから、運べるのは、わずかな兵員と食料程度、
戦車や大砲などは運べません。
さらに、米艦隊の待ち伏せや、航空機の攻撃に遭うことも多く、損害は増え続け、
実施された半年の間に、駆逐艦の喪失は14隻にのぼりました。

ガダルカナル島の飛行場を守っているのは、アメリカ海兵第1師団という、米国最強の正規軍です。
そんな所に、航空機支援の無い軽武装の陸軍部隊を上陸させ、
飛行場を奪還しようなどという作戦が、成功するはずもありませんでした。
不毛な消耗戦は5ヶ月続き、ついに日本軍はガダルカナル島からの撤退を決定します。

「ガダルカナル撤退作戦」は、「ケ号作戦」(ケは捲土重来の意)と名付けられました。

ずさんで、行き当たりばったりな侵攻計画と違い、
「ケ号作戦」は、太平洋戦争で実施された、最も大規模で、綿密に計画された撤退作戦でした。
というのも、為す術も無く見殺しにするしかなかった戦争末期と違い、
この頃までは、日本軍の戦力にも若干の余裕があったからです。

まず日本軍は、駆逐艦や潜水艦を使っての補給作戦を再開しました。
これは、ガダルカナルの兵士の体力を回復させるのが目的でした。
日本兵は、歩くこともままならないほどに、消耗しきっていました。

さらに、周辺の基地から航空機を出撃させ、ガダルカナルの飛行場に夜間攻撃を仕掛け、
撤収作戦時にも、隼や零戦などの戦闘機が艦隊の上空を掩護しました。
陸軍の戦闘機が海軍と協同して作戦に当たるのは、それまでは考えられないことでした。

また、トラック島の基地から、戦艦や航空母艦を出撃させ、米艦隊の出現に備えさせました。

そして、撤収作戦の殿を任務とする、新たな部隊を島に派遣しました。
「矢野大隊」と呼ばれたこの部隊の任務は、撤収作戦に合わせて攻撃を仕掛け、
米軍の注意を引きつけることにありました。
「矢野大隊」は最前線に布陣し、米軍の攻撃に「破甲爆雷」による対戦車攻撃などで対抗しました。
「破甲爆雷」は、戦争映画に出てくる、敵の戦車にパチッと磁石で貼り付けて爆発させる兵器です。
ガダルカナル撤退作戦が成功したのは、この「矢野大隊」の活躍が大きかったと云われています。
撤退作戦終了時、750人いた部隊は、300人に減っていたといいます。

これらの陽動作戦により、米軍は、日本軍の活動を新たな総攻撃の前触れと考え、
日本軍の撤退に全く気づかなかったと云われています。

「夕雲」を含めた、20隻の駆逐艦は、1943年2月1日から7日まで、3回に渡り将兵を救出しました。
しかし、ジャングルの奥地にいた部隊などは、撤退作戦が行われていることすら知らず、
また、消耗し、自力で動けない兵士の多くは、置き去りにされたと云います。

ガダルカナルに日本軍が投入した兵力は約3万人、撤退できたのは約1万人でした。
戦死者2万人の内、直接の戦闘での死者は5千人にすぎず、
残りの1万5千人は餓死や戦病死だったと云われています。

この時、大本営発表において、「撤退」ではなく「転進」という表現が使われたことは、
中学校の歴史の教科書にも載っている有名な話です。

ガダルカナル島から脱出した将兵が、内地に帰還することはありませんでした。
帰還兵により、ガダルカナルの惨状が国内に知られることを恐れたからだ、と云われています。
彼らは、消耗しきっているのにもかかわらず、そのまま南方戦線に留め置かれ、
再び最前線へ送られました。
そういう意味では、「転進」という表現は、正しかったと云えなくもありません。

「夕雲」は、その後、北方部隊に編入され、
「キスカ島撤退作戦」(ケ号作戦、ケは乾坤一擲の意)に参加しました。
そして、再びソロモン海域に投入され、「コロンバンガラ島撤退作戦」(セ号作戦)に従事します。

この2つの「ケ号作戦」と「セ号作戦」は、太平洋戦争において、大成功した3大撤退作戦と云われ、
駆逐艦「夕雲」は、その3つの作戦全てに参加したことになります。
特に、「コロンバンガラ島撤退作戦」は、あまり知られていませんが、
他の2つの作戦が、米軍に気づかれないうちに撤退できた、ラッキーな作戦であったのと違い、
米軍の来襲を必死に排除しながら、12,000名の守備隊を撤退させた、というものでした。

「夕雲」が従事した最期の作戦も、撤退作戦でした。
ベララベラ島にいる600名の守備隊を撤退させる、というこの作戦で、
「夕雲」は撤収部隊を支援する警戒艦として参加していました。

島は、すでに米軍によって海上封鎖されていました。
撤収部隊は、夜間に行動していましたが、米駆逐艦のレーダーに捕捉されてしまいます。
この頃、米軍は、駆逐艦のような補助艦艇にまでレーダーを装備していました。

警戒任務に就いていた「夕雲」と、3隻からなる米駆逐艦隊は、
ほぼ同時に相手を発見し、戦闘が始まりました。
「第二次ベララベラ海戦」と名付けられたこの戦いで、
「夕雲」は撃沈、米駆逐艦も1隻が撃沈、2隻が損傷して撤退していきました。
双方が発射した魚雷が互いに命中し合う、と云う文字通りの刺し違えであったと云います。

2018年3月21日水曜日

Wink鈴木早智子さん失踪事件

1989年3月23日の出来事だそうですから、今から、29年前になります。
Winkの鈴木早智子さんが、過酷なスケジュールに耐えられきれなくなり、
発作的に失踪してしまう、という事件が起きました。

この記事について「ts」さんから、貴重なコメントをいただいております。
より深い理解のためにも、是非ともコメントと合わせて読んでいただければ、と思います。

1988年の4月にデビューしたWinkは、同年11月にリリースした「愛が止まらない」がヒット、
翌1989年の1月からブレイクが始まります。
スケジュールが一気に過密になる一方で、
二人は実家を出て、都内のマンションに隣同士で住み、一人暮らしを始めます。
失踪事件が起きた3月は、「愛が止まらない」のヒットが続く中、
新曲「涙を見せないで」のキャンペーンに加えて、
新しいアルバムの制作を進める、という忙しさだったようです。
慣れない一人暮らしと、超過密スケジュールの毎日、精神的に追い詰められていった早智子さんは、
隣に住んでいた相田翔子さんに「ごめんね」と置き手紙をして、発作的に失踪してしまったのです。

この時の経緯は、彼女の自伝「負けじ魂」に詳しく書かれているのですが、
実は、この本が出るまでは、このことはファンの間でも、全く知られてませんでした。

以下、抜粋して引用させていただきます。
当時は生放送の音楽番組も多く、
他の収録番組などを合わせると、殺人的なスケジュールです。
自分たちでも何をやっているのか分からなくなるほどでした。
3月23日、この日の朝、私はあることを決意しました。
「消えよう!」そう決意した私は、タクシーに飛び乗り、
茨城県にある私の実家の別荘に向かったのです。
別荘と言っても、単なる山小屋です。
周りは海に囲まれており、人が誰もいないことも好都合でした。
どうやって別荘まで行ったのか。車の中で何をしていたのか。
着いて何をしたのか。まったく覚えていません。
(当日出演予定だった)「ザ・ベストテン」では、
風邪のためお休みと発表されたのですが、
新聞やワイドショーで騒がれることはありませんでした。
その後、怒られたり、謝りに行ったりした(恐らく謝ってない)と思うのですが、
これも覚えていません。
今にして考えると、ファンの方や関係者、
そして翔子には大変申し訳ない思いでいっぱいです。
で、凄いのは、この時、相田翔子さんが一人で歌っている動画がYouTubeにあるってことなんです。


    
この日は、昼に名古屋でCBCテレビ「がんばれドラゴンズ祭」の収録、
夜が、そのまま名古屋に残って「ザ・ベストテン」の生中継ってことになっていたようです。
ベストテンでは、一人なのに、マイクスタンドが2つ並べられているのが、なんとも・・・ですね。

それにしても、相田翔子さんの存在感が際立っています。
凄みさえ感じられます。
「早智子さんがいないと・・・いかに頼りっぱなしだったのが・・・」なことを云ってたそうですが、
本心は、全然別のところにあるように思えてなりません。

動画に寄せられている「一人でも充分にイイんじゃねえ」なんてコメントを見ると、
何となく納得してしまう自分がいて、複雑な心境になります。
1996年に、Winkは活動を停止するわけですけど、
それは、鈴木早智子さんを切り捨てるようなかたちで行われたわけですからね。

Wink 調査部員の「つ。」さんが、この前後のWinkのスケジュールをまとめていらっしゃいます。
それによると・・・。

3月10日(金) 夜に東京で生放送番組「ミュージック・ステーション」に出演。
3月11日(土) 大阪でキャンペーン開始。深夜、関西テレビの生放送「エンドレスナイト」に出演。
3月13日(月) 大阪でのキャンペーン最終。夜までに東京へ戻り、生放送「歌のトップテン」に出演。

この時は、3週連続の1位獲得で、
翔子さんと早智子さんがパートを入れ替えるという演出で「愛が止まらない」を歌っています。

     
違和感なさ過ぎですね。
結果的に、翔子さんが一人で歌った時のリハーサル代わりになったかのようです。

3月14日(火)アルバムのレコーディング
3月15~17日沖縄でロケ、沖縄から生中継で「ザ・ベストテン」に出演。
3月18・19日札幌でキャンペーン。
3月20日(月)に福岡でキャンペーン。東京に戻り、生放送番組「歌のトップテン」に出演。
3月21日(火)鹿児島で南日本放送の100周年記念イベント。
3月22日(水)福岡でイベント。
3月23日(木)早智子さん失踪。名古屋で「ドラゴンズ祭」の収録、夜「ザ・ベストテン」の生中継。
3月24日(金)「ミュージック・ステーション」に二人で出演。
3月25日(土)岡山 山陽放送でイベント。
となっています。

歌番組でのテイクの多くはYouTubeに投稿されています。
特に、失踪翌日の24日のテイクは、限定公開ですが視聴可能になっていて、
歌番組では、ほとんど口パクをしない彼女たちが、
明らかに口パクをしている、という貴重映像になっています。

まあ、前日にお休みしていたんですからね。
風邪による体調不良で口パクなんだろうって、ファンは思っていたかもしれませんが、
もし、精神的な原因で、口パクをしたのであったなら、これほど痛々しい映像はありません。

歌が大好きで、なんとしても歌手になりたかったという女の子が、
歌うことができなくなるということ。
隣で、何事もなかったかのように振る舞う相方。
視聴者が何気なく見ている映像の裏に、こんなことがあったのかと思うと・・・。

で、歌の前には、タモリさんが、「風邪大丈夫なの(歌えるの?)」みたいなことを云ったの対して、
「お腹の風邪だったんで(歌えます)」って答えるという、スレスレなトークを繰り広げています。

この後も、3月26日(日)には大阪の近鉄百貨店で「ミニ・コンサート」をしています。
このミニ・コンは、アルバム購入者に抽選で整理券を配布した限定1,000人のライブだったようで、
デパートの屋上という、昭和感丸出しのステージです。
このライブテイクも、YouTubeに投稿されています。
初期のアルバム曲なども披露していて、なかなかの動画なんですが、口パクのように感じます。
ただ、Winkの動画は、ファンがライブの映像にCD音源を組み合わせて公開、なんてのもあるので、
動画が口パクだからといって、実際のライブも口パクであるとは、断定できないようです。

26日は、ライブ終了後、そのまま雑誌撮影のためグアムへ直行って感じで、
失踪するほど、精神的に追い詰められているのにもかかわらず、容赦ない過密スケジュールです。
ただ、グアムでの撮影旅行は、忙しかった2人へのご褒美という意味もあったのかもしれません。

4月6日(木)の「ザ・ベストテン」では、
ついに、新曲「涙を見せないで」と「愛が止まらない」の2曲が同時にランクインになって、
風邪で休んでスミマセンでした、みたいな話をしています。

改めて思うのは、当時の生の歌番組が、いかに負担になっていたかってことです。
「ベストテン」「トップテン」「Mステ」などの番組に出演するため
地方での営業から、その日のうちに東京へ戻るのは、かなりの負担でしょうし、
生中継をする場合でも、打ち合わせとかリハーサルとか大変そうです。
何も無ければ、営業後はオフになって、休めるでしょうからね。

現在では、こういう番組は、少なくなってしまいました。
それが歌謡界の衰退を招いた理由の1つとされてますけど、
案外、歌手の皆さんは、ほっとしていたのかもしれません。

この後も、鈴木早智子さんは、ホントの病気で、仕事をお休みするようことがあるのですが、
診断書を視聴者に見せたりしてます。
本来、そんな義務はあるはずも無く、こんなことは、人権的に問題ありだと思うのですが、
まあ、タレントに人権など、存在しないと云うことでしょうか。

一方、相田翔子さんは、このようなことはあまり知られてませんですから、
翔子さんが、いかに、精神的にも肉体的にもタフであるかが分かります。

早智子さんの自伝には、いきなりのブレークに見舞われたタレントが
どんな状況にあるのかが、伺い知れるエピソードがいろいろと書いてあります。

これは、「淋しい熱帯魚」をリリースする前の話です。
この後も、様々なアクシデントを乗り越えながら二人は快進撃を続け、レコード大賞を獲るのですが、
過熱する人気と、どことなく醒めている二人、という構図は、この後も続いていくのです。

2018年3月18日日曜日

「丸山純奈」の所属バンド「POLU」のチケット販売が混乱しているらしい

まずは、YouTube動画からです。

今回、貼り付けさせていただく動画は、「堀 倉彰」氏のピアノ伴奏による「Love Story」です。
今までにない素早さで、「音楽チャンプ」放送終了直後に公式チャンネルで公開されました。
誰かが勝手にアップロードする前に、公式チャンネルで出してしまおうってところでしょうか。
まあ、正しい判断に思います。


何度も云いますが、この子の歌唱は、ギターやピアノでのこういう伴奏の時が一番聴き映えがします。
動画の再生回数の伸びも順調なようです。

今までは、再生回数と動画のデキの良さって、それほど関係ないだろうって思ってたんですけど、
意外と馬鹿にできなくって、同じような条件でアップされて、これイイかもって思った作品は、
それ相応に、ちゃんと伸びるんですよね。
あと、高評価は、基本的に一人一回ですから目安になりますし、低評価との比率も大切に思います。


で、ツイッターに告知がありました。
5月5日に渋谷eggmanにて、所属バンド「POLU」の単独ライブを開催するそうです。
いよいよ、関東圏での活動を開始ってことみたいです。

渋谷eggmanは、この世界では、伝説的な老舗ライブハウスで、
過去に出演したバンドを調べてみると、錚々たる名前が出てきます。

ただ、「POLU」も、徳島では有名かもしれませんけど、全国的知名度はまだまだですから、
スタンディングで350名のライブハウスといえども、チケットを売り切るのは大変なようです。
動画を見る<CDを買う<ライブに行く、とハードルが上がるにつれ、人は減っていくでしょうからね。

とは云っても、YouTubeやテレビ放送の影響力って、それなりにあると思います。
「ピコ太郎」さんが何かの番組で、世間の対応が変わったのは、視聴回数が600万回を超えてからで、
人生は600万回で変わる、って云ってましたけど、
丸山純奈さんは、テレビ朝日の「I Love You」の公式動画だけでも、すでに850万回を超えていて、
音楽配信では、一時的とはいえ、あの「米津玄師」の「Lemon」を抑えて、1位になったわけですし。
チケットの取り置き希望の方はメールを、なんてTwitter対応で大丈夫かなって心配になりました。
徳島では、それで良かったかもしれませんけど、東京ですからね。

って、原稿を書いていたら・・・・、
チケットの取り置きですが、色々とお手数おかけしてすみません。
POLUはアマチュアバンドで運営を全て自分達でやっております!
広い心で対応していただけたらありがたいです!
取り置き予約が規定枚数に達したため、一度取り置き予約を終了します!
チケットが完売したわけではなく、後日プレイガイドにて販売します。
まだの方はそちらでお願いします!
だそうです。

自分たちが置かれている状況が、十分に理解できていなかったみたいですね。

チケット取り置きの受付を始めたのが15日の夜で、一晩に100通以上申し込みがあったそうです。
で、初めのうちは、予約メールのコメントに返信するなど、のんびりムードだったようですけど、
そのうちに、アクセスが集中し始めたようで、受付完了の自動返信ができなくなってしまい、
受付を中止して、プレイガイドでの販売に変更したってところでしょうか。

「POLU」は、毎週のように、様々なイベントに参加しているとのことですが、
今年に入ってから、集まってくる観客が、明らかに増加していたそうですから、
こういった事態も、ある程度は、予想できたように思います。
しかも、今回は東京で、さらにワンマンライブですからね。

まあ、でも、そこが、彼らの一番の魅力とも云えます。

でも、この先のことを考えると、いつまでも徳島のアマチュアバンドの発想ではマズいとも思います。
特に、心配なのは、丸山純奈さん自身のことです。
彼女を守るという観点からも、早く芸能事務所に所属すべきかと思います。
って、大きなお世話でしたね。

で、チケットですけど、ちょうど休日ですし、僕も応募しちゃおうかな。

2018年3月14日水曜日

ウォーターライン製作記 ⑩ 駆逐艦物語 と「恋のミュージックアワー」feat.初音ミ

太平洋戦争とは、太平洋という広大な戦域を舞台に繰り広げられた、史上最大の海戦の連続である。
当事国が国力の全てをつぎ込んで全面対決するなど、もはや現代では考えられないことであるから、
この大戦は、最大で最後の海戦とも云えるだろう。

太平洋という広大な戦域を支えるのは、並大抵のことでは無い。
元々、日本海軍は、ロシアのバルティック艦隊と戦った、日露戦争での成功体験を基に、
局地的な短期決戦、しかも専守防衛を戦略の柱にしていたから、
太平洋全域で戦うなんて、最初から無理な話であった。
それでも、開戦から2年近くの間、戦線を持ちこたえることができたのは、
駆逐艦に代表される、補助艦艇の活躍があればこそである。


彼女たちは、戦艦に従い敵艦隊を攻撃する先兵となり、
輸送船や航空母艦を敵航空機や潜水艦の脅威から防衛する任務を担い、
討ち沈められた僚艦の乗組員を救助し、
制空権も制海権も失われた海域で、飢えに苦しむ守備隊に食料を届けた。

日本海軍は、ワシントン及びロンドン軍縮条約によって、軍艦の建造を日:米で3:5に制限された。
今でも、軍事ヲタクの中には、この条約が無ければ、日本は制限無く軍艦の建造が出来て、
戦争に勝てただろうなどと云う奴がいるが、見当違いも甚だしい。
日本が3しか建造できないのでなく、アメリカが5しか建造できないように制限をかけたのである。
つまり、制限をかけられたのは米国の方であって、条約の恩恵を一番受けたのが日本なのである。
後に条約が無効になって、日米が際限なく軍艦の建造を競った結果を見れば、明白だろう。

とは云っても、主力艦が制限され、数の上では不利になった日本海軍は、
その不足分を駆逐艦の水雷攻撃で補う戦略を立てる。
そこで建造されたのが、「酸素魚雷」を搭載し、対艦攻撃力を重視した「艦隊型駆逐艦」である。
条約により、補助艦艇についても制限を受けた日本は、1隻あたりの性能を上げることを追求する。
その結果、日本の駆逐艦は、1対1の戦闘になれば勝つことができたと云われているが、
高性能を追求するほど、構造は複雑になって量産化は難しくなり、
航空機やレーダーの発達によって、海戦の有様も大きく変化してしまい、
時代の流れからも取り残されることになる。

彼女たちは、数的不利のなか、不向きな防空戦や対潜水艦戦に挑み、
また、高速輸送船として駆り出されていったのだ。

軍隊は、完全な縦社会で、極度のストレスにさらされているから、凄惨な虐めが横行していたと云う。
それは、戦艦などの大型艦になるほど酷く、例外は、航空兵と、潜水艦乗りだけだったらしい。
パイロットの育成には、莫大な費用と時間が必要で、戦闘が始まれば艦隊の運命は彼らに託されたし、
潜水艦は一人のミスが命取りになり、撃沈されれば全員が戦死するという運命共同体だった。
どちらも、「個」の技量が重視される任務である。
「個」が尊重される環境では、虐めは発生しない。

駆逐艦もそれに近かった。
さらに、狭い艦内の生活環境は劣悪だし、上官だからと威張っているばかりでは、船は動かなかった。
しかも、駆逐艦の防御力は脆弱であったから、艦長以下全員戦死という艦も少なくない。
虐めが無いのは、過酷な環境の裏返しでもある。


日本海軍の駆逐艦は、常に最前線におくられた結果、そのほとんどが撃沈されてしまい、
開戦時、百隻以上あった艦艇のうち、終戦まで健在だった艦は10隻にも満たなかったと云われている。
日本海軍が敗北したのは、駆逐艦の喪失により戦線の維持ができなくなったことが大きい。
巨大な戦艦が温存され続けたあげく、燃料不足で出撃できず、
軍港に係留されたまま終戦を迎えたのとは、対照的である。


戦後、「ミサイル」が攻撃兵器の主になることで、戦艦のような巨大艦は不必要となり、
海軍の主力は、航空母艦やイージス艦などに変わっていった。

日本海軍は、海上自衛隊と名を変え、配備された軍艦は護衛艦と呼ばれるようになった。
実は、護衛艦は、系統上は駆逐艦の後継にあたる。
海上自衛隊の汎用ミサイル護衛艦には、旧日本海軍の駆逐艦の名前が使われているものが多い。

大戦によって失なわれた旧日本海軍の多くの駆逐艦、
彼女たちの名前は、国防の主役、護衛艦の艦名として、今も受け継がれている。


で、貼り付けさせていただくのは、初音ミクの歌う「恋のミュージックアワー」です。
記事と若干のギャップがありますので、閲覧される場合は近くに人がいないか、確認してくださいね。


こんなに無条件に明るいボカロ曲、久し振りです。
最近は、「刀剣乱舞」に押されっぱなしの「艦これ」ですけど、
艦これの駆逐艦娘も可愛いですし、楽曲もイイ感じだし、明日もお仕事頑張ります!

2018年3月11日日曜日

松浦亜弥 マニアックライブvol.4 2006年編

Wink鈴木早智子さんの自伝本によると、
アイドルにとっての絶頂期というのは、ひたすら追いまくられるだけの日々に過ぎず、
仕事が面白くなったのは、人気が落ち着いた後からだったそうです。
つまり、「最近あまりテレビで見ないねえ」なんて云われ始めた頃が、
歌手として一番楽しい頃だったと云うのです。

松浦亜弥さんにとっての2006年というのは、正にそう云った時期だったのではないでしょうか。

この年に開催された2つのコンサートツアー。
ストリングスとピアノを取り入れた春のライブツアーと、
ギター、キーボードそして、ブラスを取り入れた秋のツアー。
いったい、松浦亜弥は何をやりたいのか、という気もしますが、
ファンを振り回しながら、やりたいことを思いつくままにやっていた、2006年という年は、
シンガー松浦亜弥にとって、案外、充実していた時期だったのかもしれません。

しかし、この年にリリースされたシングルは、「砂を噛むように・・・NAMIDA」の1枚だけ。
カップリング曲は、「ハピネス」となっています。
淋しい限りですが、致し方ありません。
どんなアーティストだって、晩年(?)になれば、何年かに一度しか、新曲は出しませんからね。

この曲で、完全につんく♂氏を離れ、バラードシンガーの道へ進むことになった、とされています。
松浦さんにしてみれば、これで煩いアイドルオタクたちと決別できる、と考えたのかもしれませんが、
実際、離れていくのは、ライトなファンばかりで、
残ったのは、コアで熱心なアイドルオタクのみ、と云う結果になってしまったようです。


鳴り物入りの新曲「砂を噛むように・・・NAMIDA」は、
初のベスト10落ちという、セールス的にも淋しい結果となります。
ただ、そんなことは、織り込み済みのことだったと思います。

こんな感じの曲を1年に1曲ずつでも出していけば、それなりの音楽活動は継続できたはずですし、
そういうことをしていれば、そのうちに、新たな・・・、
つまり、現在いるような、ネット動画をきっかけに松浦亜弥の虜になったような者たちが、
遅ればせながらファンになって、もっと直接に彼女を支えられたはずです。

夜の部で演奏された「ハピネス」です。


これぞ隠れた名曲、素晴らしいデキのベストテイクと絶賛させていただきます。

忘れては、いけないことがありました。

2006年の11月には、アルバム「Naked Songs」が発表されていましたね。
このアルバムの特徴は、生バンド演奏によるセルフカバー曲が中心になっていることです。
収録されているのは、洋楽カバーと初期のアイドル曲と少しばかりの新曲。
セルフカバーは6曲で、「オシャレ!」「I know」「初めて唇を重ねた夜」
「LOVE涙色」「ドッキドキ!LOVEメール」「トロピカ〜ル恋して〜る」となっています。
ほとんどが、ファーストアルバムからですね。
脱アイドルでは無かった、ってことでしょうか。

アルバム名は、「あるがままの歌」ってことですよね。
ファーストアルバムの楽曲群をアイドルソングでなく、
1つの楽曲として聴いて欲しいってことなのでしょうか。
ただ、その想いが、当時のファンに届いていたかは分かりません。

このアルバムに新曲として収録された楽曲が、
成海カズト氏:作詞作曲の「dearest.」と、中野雄太氏:作詞作曲の「ひとり」でした。
松浦亜弥さんの代表曲となっていく、この2曲が発表されたのも2006年だったんですね。
ただ、この2曲は、このライブではスルーされています。
まあ、いろんな場で歌ってきましたから、今回は見送ったのでしょう。

今思えば、この2曲を中心に完全オリジナルアルバムを発表するか、シングルにして勝負に出るか、
なんてできれば、違う展開になっていったように思えるのですが、何故そうしなかったんでしょう。
この時期ならば、実現できないほど、ファン離れが起きていたとも思えません。

いずれにしても、2006年は、松浦亜弥さんにとって、始まりの年であったことは確かなようです。


しかし、マニアックライブVol.4における
「砂を噛むように」や「ハピネス」を聴いて思うことは、その完成度の高さです。
僕は、このライブが開催された2012年こそ、これらの曲を歌うに相応しい時だったと思うんです。
松浦亜弥は、才能有るシンガーでしたから、20歳だとしても、これらの楽曲を歌いこなせました。
でも、それは正しかったのでしょうか。

松田聖子さんが、「あなたに逢いたくて~Missing You~」を発表したのは、30代半ばの時です。
この楽曲が聖子さん20歳の時にリリースされてたら、これほどまでの評価が得られたかどうか。

思えば「dearest.」だって、2013年に歌うべき楽曲だったように思えてなりません。

つまり、6年、早かったのではないかと。
6年というギャップは、松浦亜弥の才能を持ってしても、あまりにも大きかったのではないかと。

そして、僕らは遅すぎて、
彼女は、待ちきれなかったのではないかと。

2018年3月8日木曜日

丸山純奈のデビュー曲「ドラマ」で、号泣するかドン引きするか

 祝・デビュー曲配信!

・・・で良いんですよね。

ツイッターのフォロワーが5万人になろうとしていて、
1年以上前から、バンドのボーカルとしてライブ活動をしていて、
YouTubeの再生回数が関連動画も合わせると1,000万回を軽く超えていて、
徳島県警の特殊詐欺被害防止広報大使に任命されていて、
「クリス・ハート」氏のコンサートにふらりと訪れて、めっちゃ感動しましたって云って、
楽屋で撮った2ショット写真をツイッターに公開して、
1年前にCDを出していている中学生が、
今更、一般人とは、絶対考えられないんですけど。

テレビ朝日としては、自分たちが発掘したシンデレラガールってことにしたいのでしょうね。
これからのことを考えると、「Mステ」を持つ「テレ朝」がバックに付くのは、イイことですし、
合唱ガールですから、「題名のない音楽会」なんてのも、似合っているかもしれません。

デビューと云っても、オリジナル曲を配信(しかも無料)しただけのようですが、
これも、立派なデビューでしょうから、便利な時代になったものです。
ブログで紹介された配信元の回線が、つながり難くなっていたり、
一時的とは云え、配信の検索ワードで、乃木坂と欅坂を抑えて1位になったりと、
それなりのインパクトはあったようですね。

プロデュースは、「音楽チャンプ」の審査員でもあった「杉山勝彦」氏とのことです。
氏は、乃木坂46などにも多数の作品を提供し、昨年、レコード大賞作曲賞も受賞したという、
今、注目のアーティストさんですから、テレ朝がバックに付くと違います。

配信曲の名前は、「ドラマ」っていいます。
良い曲であることは認めます。
が、困ったことに、僕の最も苦手なタイプの楽曲です。
聴いているこっちが恥ずかしくなってしまい、最後まで聴けません。

僕的には、こういった「お母さんありがとうソング」よりも、
可愛らしいラブソングでも歌って欲しかったところです。
ネットには、「I Love You」なら金を払う気になるが、これじゃあDLする気にならない。
なんていうコメントが多く上がってました。
まあ、理解できます。

此手の曲って、リトマス試験紙みたいなところがあるので、素直に感動できる人が羨ましいです。

でも、考えてみれば、こんな歌を歌える子が、このご時世にいたってことが、奇跡的でもあるわけで、
かえって、斬新で、良かったのかもしれません。
DLしない奴は、たとえ「I Love You」が配信されたとしてもDLしないでしょうし。

公式チャンネルでは、テレビ放送のテイクが、公開されてます。


テロップに「ドラマ/丸山純奈 作詞・作曲:杉山勝彦」って出てくると、
ああ、オリジナル曲なんだなあって、ちょっと感動したりして・・・、

実は、配信されている歌よりも、こっちの方が上手いかもしれません。

Cメロと、エンディングの歌い方が秀逸です。
とくに最後の数小節で、一気に泣かせにかかっています。

でも、本当の勝負は、まだまだこれからでしょう。

丸山純奈さんデビューに向けて、「菅井秀憲」氏のはなむけ(?)の言葉がありました。
要は、「いろいろと苦労するだろうが、あなたなら頑張れるだろう。」ってことでした。
「あなたには冒険が足りない」とも云ってましたね。
まあ、「ご苦労無し」ってことですけど、そりゃあそうですよね。
まだ中学2年生なんですから。

彼女だって、月に2回、大阪まで出かけてボイストレーニングをするなど、
これまで、人一倍、努力をしてきたと思います。
だけど、挫折とは、無縁に思えます。

歌手になろうって夢を持ったのが小学校6年生の時で、
歌手になったのが中学校2年生で、
わずか2年で夢を叶えてしまったわけですし。

だからと云って、「挫折を知らない人間はダメだ。」ってことにはなりません。
そんな言葉は、挫折した奴を慰める言葉に過ぎないのですから。

丸山純奈の魅力は、彼女が「ピュアな才能の塊」であることです。
歌うという才能に恵まれた子が、才能のままに歌っている。
たったそれだけのことなんですけどね。

でも、それだけだからこそ、心に響くのでしょう。

でも、少しずつ変化しているのも確かです。
いつまでも、純粋なままではいられません。

新しい道を歩むことは、別れを伴うこと。
得るものがあれば、失うものもある。
「Love Story 」でも、そう歌っています。

「ピュアな才能の塊」丸山純奈さんは、
少しずつ「ピュアな才能の塊を演じている」丸山純奈さんになってゆくのでしょうか。
いつか、歌うことが辛いと感じてしまう時が来るのでしょうか。

スミマセン、妄想が過ぎました。
まだ、デビューしたばかりだというのに。

2018年3月2日金曜日

松浦亜弥 マニアックライブvol.4 2005年編

松浦亜弥さんの2005年は、どんな年だったのでしょうか。

2004年秋の熱愛報道をきっかけにして、アイドル人気は一気に下降していったと思われます。

だた、アイドル人気というものは、どんなタレントでも、5年も続けば良いほうです。
上京してきたばかりの松浦亜弥を、レコーディングスタジオで歌わせたとき、
その歌唱を聴いていた「つんく♂」氏と「橋本慎」氏が、
「これでオレたち5年は食える」とスタジオの廊下で抱き合った話は有名ですよね。

ファンとしては、松浦亜弥ほどの逸材に向かって、たったの5年とは何事だと憤慨するところですが、
現実は、正にその通りになってしまったわけです。
そもそも、アイドル人気なんてのはバブリーですから、いつまでも続かないことなど周知の事実です。

一方、知名度というのは、アイドル人気と違って、積算されていきますから、
2005年の松浦亜弥さんは、田舎の爺ちゃん婆ちゃんも知ってる、というタレントだったはずです。
実際、その知名度の高さを買われて、
「愛・地球博」の閉会式において、プリンス浩宮様の御前でイメージソングを歌ったり、
郵便局のCMキャラクターになったりと、オカタイ仕事をこなしています。

で、肝心の音楽活動を見てみると、3月に、初のベストアルバムを出すものの、1位を獲れず、
シングルリリースも「ずっと好きでいいですか」と「気がつけばあなた」の2曲だけとなっています。
ライブ活動でも、ハロプロ関連のユニットとかが中心のようです。
動員力が落ちてしまった結果の「まとめ売り」ってことでしょうか。
2004年の代々木ライブの輝きは、何処へ行ってしまったのかって感じです。
まあ、「DEF.DIVA」の破壊力も評価できますけど。

選択肢の無い中でのセレクトは、昼の部が「笑顔に涙」、
夜の部が「ずっと 好きでいいですか」となっています。

?って、何でここで、いきなり「笑顔で涙」なんでしょうか。
このライブは、年を追って振り返るっていう趣旨だったはずですよね。

 
う~ん、動画を見る限り、この歌を、ここで歌った理由は、分かりませんですねえ。
ちなみに、夜の部では、ラストソングにこの曲を歌っています。

実は、セットリストを見ると、夜の部の13曲歌に対して、昼の部は、11曲しか歌ってません。
昼の部は、後がありますから、しゃべり過ぎたとしても、時間をオーバーすることができません。
結局、予定された曲を全て歌えないことが分かった段階で、
最後に歌うつもりだった「笑顔に涙」をここに持ってきたのでしょうか。
恐らく、差し替えられたのは、夜の部でも歌った「ずっと好きでいいですか」。
2005年は、「ずっと好きでいいですか」を昼夜2回歌うつもりだったように思います。
他に選択肢も無いようですからね。
もちろん、憶測に過ぎませんが。

この後に、伝説になっているファーストステージの思い出を語っています。
このテイクでは、このMCの方が、価値が有るかもですね。


夜の部は、「ずっと好きでいいですか」です。

   
この楽曲は、「今井千尋」氏の作品だったんですよね。
この楽曲のベストテイクは「ハロプロ・パーティー2005松浦亜弥キャプテン公演」だと思うのですが、
この動画は、視聴回数が26万回超えと、同じライブの他の動画と比べても、かなり多いです。
視聴回数は、当てにならないモノではありますが、意外と世間の評価を表してるところもあって、
改めて、聴いてみるとなかなかの歌唱に思えてきました。

「ずっと好きでいいですか」は、「つんく♂」離れの初作品と云うことでしたが、
作詞は「つんく♂」氏ですし、曲の雰囲気も「つんく♂」っぽいんで、どうもピンときませんです。
で、何となくどこかで聴いたような気のする楽曲ですが、
こうやって、じっくり聴くと、隠れた名曲って気が・・・って、歴としたシングル盤でしたね。
失礼しました。

ただ、この年の楽曲で、世間に知られていたのは、「気がつけばあなた」の方だったと思います。
「気がつけばあなた」は、午後の紅茶のCM曲ですけど、当初、サビのところしかなかったと云います。
つまり、正式な楽曲で無くって、CM用のネタ曲だったんですよね。
で、CDにして欲しいとの要望を受けて、補作したんだそうです。

ファンにしてみれば、
「奇跡の香り」以降、4曲続いたスロー・ミディアムテンポ系の曲に食傷気味だったのでしょう。
ですから、世間は「気がつけばあなた」みたいな曲を望んでいたし、実際、売れたわけです。
松浦亜弥、最後のヒット曲って云ってイイでしょう。
でも、この路線は、この曲でお終いになってしまいます。
このライブでもスルーしています。
重ねて云います。
何で、「笑顔に涙」だったんでしょうか。
こういう感覚のズレが、どうにも理解できないというか、もどかしいんですよね。


まあ、今更云ったところで致し方ないこと、やめておきましょう。
「音楽チャンプ」の録画予約をしなくては・・・